雑誌「チルチンびと」83号掲載 京都大原の山里に暮らし始めて
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7くいかずに悩んでいたとき、あるインド人から瞑想を習い、元気を取り戻すことができた。そのインド人の先生が10月にインドのデリーでピース・ボーン(平和の爆弾)という祭りを計画していることを聞き、ベニシアは行きたいと思う。瞑想の仲間たち10人と中古のバンを手に入れて、陸路で2カ月間かけてインドへ向かった。 ベニシアはインドのあと、どうして日本をめざしたのだろうか? 当時ベジタリアンだった彼女は、ロンドンにあるマクロビオティック・レストランによく通っていた。マクロビオティック運動を始めたのは、日本人の桜沢如一である。また、鈴木大拙の禅に関する本が英訳されて、彼女もそれに触れていた。イギリスの若者たちが、東洋や日本に目を向けていた時代である。 「想い出深いのは、子どもの頃よく過ごしたケドルストンホールで見た日本の陶器かなあ」。ベニシアの母の実家は、ダービーシャーにあるケドルストンホールというカーゾン家の館である。ベニシアの曾祖父の兄かじやま・ただし/1959年長崎県生まれ。写真家。山岳写真など、自然の風景を主なテーマに撮影している。登山ガイドブックほか共著多数。84年のヒマラヤ登山の後、自分の生き方を探すためにインドを放浪し、帰国後まもなく、本格的なインド料理レストラン「DiDi」を京都で始める。妻でハーブ研究家のベニシア・スタンリー・スミスさんとはレストランのお客として知り合い、92年に結婚した。PROFILEそして日本へは外務大臣やインド副王総督を務めたジョージ・カーゾンで、明治時代に2度、日本に滞在。陶器はそのときカーゾンがお土産に持ち帰ったものだ。登山好きの僕は、かつて読んだ訳書『シルクロードの山と谷』の著者であり探検家が、ベニシアの先祖だと知りびっくりした。カーゾンは京都にも来ているが、果たしてここ大原まで足を延ばしただろうか?          (次回に続く)春が来ると毎年我が家の庭を彩る、黄色いミモザとチューリップ。フォークグループ「スウィート・ドリーム」のベニシア(中)。カーゾンに関する本。世界山岳名著全集や1894年の日本滞在について書いた本など。になった。さらに18歳の社交デビューまで我慢したが、まわりの人びとの話は乗馬や競馬の話ばかり。とても馴染めなかったそうだ。 17歳の時、歌が好きだったので友人とフォークソング・グループをつくった。ベトナム戦争反対など、メッセージのある歌を歌うことが多かった。19歳のある日、アイランド・レコードからレコードデビューの話が舞い込んだ。曲は昔のイギリス民謡スカボロー・フェアである。 ところが録音まで進めていたのに、突然中止に……。なんとちょうど同じ頃、アメリカの有名フォークソング・グループ、サイモン&ガーファンクルがまったく同じ曲でレコードを発売したからだ。それがきっかけで、ベニシアは歌の世界から離れることにした。 その頃付き合っていた恋人とうまスでは女性も乗馬、テニス、スキーなどのスポーツで男っぽいことばかり。読書好きでおとなしい彼女は、それらのレッスンから逃げまわっていた。 13歳からディナーパーティーへ顔を出すようになるが、生真面目な彼女はいつもウォール・フラワー(壁に飾られた花のように静かなこと)

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