雑誌「チルチンびと」76号掲載 京都大原の山里に暮らし始めて 梶山正
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「梶山」という 名の山の話  僕はベニシアと一緒によく近所を散 歩する。ここ大原は散歩する場所に恵 まれている。これまで何気なしに歩い た場所が、歴史や文化と関わる興味深 いところだったと、後でわかったこと が幾度かあった。  魚山は日本の声明発祥地と言われて いる。魚山とは大原三千院などの寺の 山号。また声明とは仏典に節をつけた 仏教音楽の一つだ。平安時代前期、中 国魚山で14年間修行した慈覚大使円仁 により声明の道場として来迎院が創建 された。その後しばらく衰えるが、1 109年に良忍上人が来迎院を再興さ せる。魚山背後にある律川の滝の前で 良忍上人が声明を唱えていると、滝の 音と声明が融合して滝の音が消えた。 それから、その滝は「音無の滝」と呼 ばれるようになったそうだ。  律川のすぐ南を呂川が流れ、魚山は 二つの川の間に位置する。呂川と律川 の名は、声明の旋法にちなんで名付け られた。調子はずれを「呂律が回らな い」という言い回しは、ここ魚山で始 まったとされる。このようなことを知 る前は、僕にとってそれらは、ただの 小川であり小さな滝にすぎなかった。  さて、今回は音無の滝の水源の山の 話にも触れたい。三角点がある標高681・4メートルのこの山の名は、僕 の姓と同じ「梶山」という。ところが、 この山は長い間、国土地理院地形図に 「大尾山」とされていた。また、市販さ れている地図には「大尾山」「木尾山」 「童髯山」「童髪山」「南庄越」と多くの 名前が登場する。どうも〝わけあり.の 山のようだ。  僕は2002年より『京都北山』(昭 文社 山と高原地図)の登山地図をつく る仕事に関わるようになった。ある日、 『京都北山』地図の読者で、学校教諭を されている柴田昭彦氏から手紙を受け 取った。梶山に関する情報は、柴田氏 によるものが多いことをここで明記し ておく。  山の近江側、伊香立南庄町ではこの 山の8合目より上一帯を梶山と呼んで いる。地元の小字名だという。市販さ れている山の本によると、「それが、何 かのミスで『梶』が『木』と『尾』に分 解され、『木』が『大』に読み間違えら れ(中略)『大尾山』と記載された。地 元では訂正を望んでいる。」(近江百山 之会編著『近江百山』より抜粋、ナカ ニシヤ出版)  「南庄越」に関しては、『京都北山』地 図作成の前任者による本 に次のようにある。「大 原と南庄を繋ぐ峠はあっ た筈であり、私がそれを 知らないだけであろう」 (金久昌業著『北山の峠』 より抜粋、ナカニシヤ出 版)、これによると、南庄 越のはっきりした位置は 不明だと思われる。  「梶」の文字も気になる ところである。三千院の名は1871 年以降に使われるようになった。それ 以前は梶井門跡、梶井御所、梶井宮な どと呼ばれていたからだ。  大原側での山の名は、はっきりしな い。これについて柴田氏が山の所有者 に問い合わせてみると、「音無の滝上 流の名前が、来迎院北谷と明治時代の 『大原村志』にあるので、『北谷山』と していいのでは?」と。あるいは「三 の滝の吉澤の山」とも呼ばれているそ うだ。三の滝とは音無の滝の上にある 滝で、吉澤とは所有者の名である。と はいえ、そういった山名を大原に住ん でいる僕は聞いたことがなかった。  「童髯山」に関しては、昭和9年当時、 京都一中の学生だった川喜田二郎氏 (文化人類学者)が土地の人に山の名を 聞いて、漢字は自分で考案したそうだ。 その情報を盗用したある登山ガイドブ ックにより、登山の世界では「童髯山」 の名が広まってしまった(日本山岳会 京都支部編著『山城三十山』、ナカニシ ヤ出版)。  柴田氏の手紙によると「地名調書記 載の訂正について国土地理院に連絡済 みなので、いずれ、近いうちに地形図 も訂正されることと思います」。氏の 地図と登山に対する熱意を感じ、『京 都北山』2004年版からその山を「梶 山」の名で僕は載せることにした。と ころが経緯を知らない人から「勝手に 自分の名前を山に付けやがって!」と 批難を浴びることにも。現在の国土地 理院地形図では、山名が「梶山」に改 められている。  話がついつい長くなってしまった。 さて、今日はどこを散歩しようか。

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