高知県編 その一

徳島県から高知県に移動しました。四国の澄み切った深い青い空の下、旅は続きます。高知に行ったなら必ず訪ねようと思っていた場所が二つありました。一つは高知県立美術館で開催されていた岡上淑子の展覧会。もう一つは知る人ぞ知る素人が独自に建てた鉄筋コンクリート造の奇妙な建造物「澤田マンション」。どちらも見逃せないものなのでした。

まずは高知県立美術館「岡上淑子コラージュ展・はるかな旅」(2018年1月20日~3月25日)へ。

岡上淑子は、1928年(昭和3年)に高知市に生まれました。1950年(昭和25年)22歳の頃、通っていた東京の文化学院デザイン科で、紙をちぎって絵を作る貼り絵の授業がありました。たまたま人の顔が載った紙が混じっていて、「面白いな」と思ったのがきっかけで、羅紗紙にハサミで切った顔を張ってみるところからコラージュ作品を作り始めます。
戦後進駐軍が置いていった洋雑誌『LIFE』『VOGUE』などを古書店で買い求め、それらのモチーフを鋏で切り抜き、組み合わせていきました。フランス映画に惹かれヨーロッパにあこがれていた乙女らしく、西洋の女性や動物、豪奢なジュエリーやドレスが廃墟の背景に配置され、人の顔が鳥の頭やオブジェにすげかわっていたりするシュールなコラージュ作品を次々に制作しました。
あるとき、それらが美術評論家・瀧口修造(*1)の目にとまり、「面白いですね。続けてごらんなさい」と言葉を受けました。その後瀧口の推薦で1953年(昭和28年)東京の「タケミヤ画廊」ではじめての個展を開催、シュールレアリズム(*2)の新進作家として注目されます。しかし1957年(昭和32)、同じくシュールレアリズムの画家であった夫、藤野一友との結婚後は制作することなく美術界から姿を消しました。1967年(昭和42年)、39歳の時に離婚。息子を連れて高知に転居しました。
大きな転機が訪れたのは1996年(平成8年)69歳のとき、コラージュ4点が目黒区美術館で開催された「1953年ライトアップ―新しい戦後美術像が見えてきた」に出品され、岡上作品が紹介されると、2000年(平成12年)岡上72歳の時に44年ぶりの個展「岡上淑子フォト・コラージュ―夢のしずく―」(第一生命南ギャラリー)が当時東京都写真美術館学芸員であった金子隆一の企画で開催され、再評価がすすみました。
今では国内の美術館はもちろん、ニューヨーク近代美術館、ヒューストン美術館など海外の美術館にも作品が収蔵されています。

高知県立美術館でのこの展覧会は岡上の初の回顧展であり、コラージュと写真による岡上作品が一堂に展示されたものです。
ひとつひとつ作品を見て回りました。丁寧に素材を選び、慎重にかつ大胆にモチーフを組み合わせているのが伝わってきます。またコラージュは「モチーフが見つかるまで、素材を切って取っておくなどした」ことや、「ヤマト糊を少し乾かし気味にして貼った」ものだと知りました。仕上がりが美しく手の器用さが伺い知れます。
戦前に生まれ戦中戦後に青春時代を過ごした当時の日本人の女性たちの夢は、恵まれた時代に生まれ育った私達には推し量ることは困難です。しかし昭和10 年生まれの私の母の話から、いくばくか想像を巡らせることはできます。「風とともに去りぬ」の女優ヴィヴィアン・リー、「カサブランカ」のイングリット・バーグマンの美しさを語るときの母の目の輝きを忘れることができません。母には、西洋の女性たちが自分の意思で道を切り開き、前に進んで行くことに対する憧れと羨望があったのです。

岡上作品150 作品を収録した展覧会図録の中に岡上淑子のエッセイがありました。
「実らぬ花の種を蒔いた咎を受けたかのように、私は咲いた女の怨に狼狽します。けれども深い皺に刻まれた掌には派手すぎる彼女達の装いに、思わず目をそむけると、彼女たちは誇らしげに囁くのでした。“私達は自由よ”と」

岡上淑子岡上淑子岡上淑子

*1. 瀧口修造(1903~1979) 詩人・美術評論家。富山県生まれ。慶大在学中から詩作。シュールレアリスムの紹介・評論にもつとめた。著「幻想画家論」など。
*2. シュールレアリズム( 日本語で超現実主義)とは、理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざす二〇世紀の芸術運動。フランスのアンドレ・ブルトンが提唱した。

参考文献等:
〇高知県立美術館「岡上淑子コラージュ展はるかな旅」公式図録(2018年1月20日~3月25日 主催:高知県立美術館、高知新聞社、RKC高知放送)
〇日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ/岡上淑子インタヴュー(実施日:2013年3月8日 公開日:2014年4月19日 インタヴュアー:池上裕子、影山千夏)