百合の思い出

今年もサクユリが咲いた。たった30センチの鉢からゆっくりと伸びてきて、先端に19センチほどもの花を二つも。切って生けると家の中がユリの香りでいっぱいになった。実はユリといえば忘れられない人がいる。それは幼いころ近所に住んでおられたおばあさん「森百合子さん」である。森さんは元祇園の芸者さんであった。学生の頃一緒に旅行をしたことがある。岡山の旅館で、浴衣を着た森さんの着物がまるで浮世絵の中の女性のように曲線を描いたのを見て驚嘆したものだ。

森さんは神戸に生まれ、ご本人いわく、過度に「利かん気」だったせいで子供の頃捨てられて芸妓さんになった。こんな印象深い話がある。子供の森さんはませていて映画が大好きで毎日映画館に通っていた。ある日、通りに人だかりが出来ており、好奇心で覗き込んだ森さんは叫んだ、「チャップリンのおっちゃん!」まさに本人が来日していたのであった。チャップリンは、おかっぱの森さんの前に歩み寄り、うやうやしく胸ポケットから一輪の花を取り、お辞儀をしながら少女に差し伸べた…

戦争が始まり、森さんは舞妓さんになったのだが、御座敷デビューの地は台湾であった。素晴らしい着物を身につけたその時の森さんの写真を見せてもらったことを覚えている。彼女に結婚を申し込んだお相手の方は戦死された。そして、彼女はさらにフィリピンへ渡った。最も感慨深い話はここから… まだ幼かった森さんはある日、海岸沿いの大きな住宅のたち並ぶ通りを歩いていた。クリスマスの夕方であった。その時、少女は、ある、ろうそくの明かりがともる窓に引き寄せられた。あたたかい家族の団欒の光景が目に飛び込んできた。そして彼女は、窓越しにシルバーのカトラリーや素敵な洋食器を見た。身寄りのない、ひとりきりの彼女にとって、それは夢のような世界であった。そして、その光り輝くカトラリーや洋食器の美しさは彼女の脳裏に焼きついた…

戦後、祇園で再び芸者となった森さんは、西陣織の会社の社長さんのお妾さんとなり、喫茶店を経営し、社長さんを最後まで看取ったのち、田舎に家を建て引っ越した。そこでご近所さんとなったのが私の実家であった。ある日、犬の散歩から帰ってきた父が「あそこに引っ越してこられた森さんという方が大変なものをコレクションしていらっしゃって見せてくださる、普通にはちょっと見られないものだ、さあすぐに行きましょう」と言った。なんだろうと思いながら、家族四人出かけた。私と弟はまだ中学生と小学生だった。平屋の日本式家屋の中には大きなガラスケースがあり、ガラスの器が並んでいた。ラリックやバカラなどの器であった。たくさんの洋食器やカトラリーもあった。森さんは得意げに語られた「京都で最初にロイヤルコペンハーゲンを買うたのは私やで。高島屋で買うてん。」それ以前は、伊万里など日本の器にしか興味のなかった両親は、感銘を受け、この日から森さんに洋食器を熱心に学び始めた。こうして森さんとの不思議なお付き合いが始まった…

英国のインテリア雑誌『ストゥーディオ』1936年10月号より、ロイヤルコペンハーゲンの広告。弊店に現在在庫しているこの雑誌のセットは、おそらく刊行当時から日本に輸入されてあったものである。
英国のインテリア雑誌『ストゥーディオ』1936年10月号より、ロイヤルコペンハーゲンの広告。弊店に現在在庫しているこの雑誌のセットは、おそらく刊行当時から日本に輸入されてあったものである。

森さんは破滅的であった。財産を全て使い尽くすというのが口癖で、コレクションは次々と売られ、九州に越され、何年かのちに京都(下鴨)へ戻ってこられたが、最後にお会いした場はとても小さな住まいであった。そこで森さんが持っておられた最後の暮らしの食器の美しさを私は忘れない。それは例えば、持ち手の壊れた大倉陶園のカップや子供用のお皿(どのメーカーかは忘れた)であった。

先日、父が突然電話してきて言った。メルカリに少し珍しいロイヤルコペンハーゲンのフルーテッドフルレースというカップ&ソーサーが出ている、実は以前森さんが麻帆にとくださっていたものを自分がうっかり割ってしまったものと同じだ。ぜひ買ってくれと。森さんと聞いて懐かしく、反射的にすぐに注文した。届いた真っ白な小さな食器を見て、思い出が溢れた。

 

2023年7月15日