西田幾多郎のノートと花形活字

金沢の活版印刷工房尚榮堂さんは、花形活字を使ってカードを作られている。(尚榮堂さんについては、拙文を参照してください。)

花形活字とは、本の扉ページなどを飾るのに昔から使用されてきた装飾文様であり、西洋で印刷の始まった15世紀にはすで存在していた伝統あるものだ。尚榮堂さんのカードはとても美しいので、いつも分けていただいて、弊店のご挨拶に使わせていただいたりしている。花形活字が日常品にという私の喜びと裏腹に、そのカードは世間ではウケていないらしい。至極残念。

一昨年、古書組合の業者交換会で仕入れた紙モノの箱の中に、尚榮堂さんが使用されているのと全く同じ花形活字を使った印刷物を見つけた。昭和十年三月二日の「都山流尺八演奏會」のプログラムで、開催場所は「大阪北区絹笠町大江ビルヂング内講堂」と記されている。

そして、つい先だって。西田幾多郎記念哲学館での新発見されたノート(西田が1890年代ごろから使用したと思われる50冊ほどの大学ノート)のうち何冊かの表紙が、当時の活版印刷技術で製造されたものなのではないか、調査してはということになった。活版印刷の昔話を聞き書きに、学芸員の井上智恵子さんが尚榮堂さんをお訪ねになると、なんと、ノートのうちの一冊に使用されている花形活字が現在も製造されているものであることがわかった。同じものが、東京の活字鋳造所の目録に載っているのを尚榮堂さんの奥様が見つけられたのである。今度東京へ行った時に早速求めてみることにしようと、尚榮堂さんご夫婦といろいろ夢を膨らませている。

井上さんが尚榮堂さんを訪問された時、私は業者交換会にいた。ある紙モノの箱の中に、西田ノートと同時代の大学ノートが入っているのが目に止まった。手に入れなければと即座に思ったが、意外に競り上がってしまって入札を諦め、がっかりしながら、買い主にノートだけを譲ってくださらないかと、恐る恐る声をかけてみる。ありがたいことに、無事私のものになった。中を開いて丹念に見てみると、20ページ目くらいからマルキ・ド・サドについての文章が綺麗な字で延々と書き込まれていた。

そのノートを片手に、数日後東京へ。西田ノートについて本郷の東京大学図書館で調査するためだったが、時間を作って神保町へ行った。すずらん通り沿いの老舗文具店文房堂がとても古い創業であることを、別の調査で最近通わせていただいている金沢湯涌夢二館の学芸員川瀬千尋さんから教えていただいていたからだ。偶然、書肆ひぐらしの有馬浩一さんから、猿楽町の文具店錦華堂でも、戦前から大学ノートを製造販売されていたらしいことをご教授いただく。お訪ねすると、当代さんが喜んでくださって嬉しくなった。哲学館の西田ノート調査に役立つ資料が何か発見されるといいなと思う。

錦華堂すぐ近くの錦華小学校は、夏目漱石が卒業した小学校として有名なところ。私が目下翻刻している西田ノートは、西田が東大選科生時代に受けたドイツ語授業と関連があるのではないかと推測されているもの。その授業では、一学年上の漱石も一緒だったと西田は後に回想している。

西田の姪の知られざる女性哲学者高橋ふみが、文房堂製のノートを使用していると井上さんが教えてくださる。そのノートは、いつも哲学館の片隅にハイデッガー全集と並んで展示されているものだが、実は私には別の意味でとても重要だった。表紙に施されている装飾が、私が長年調べてきた「日本におけるウィーン世紀末風(セセッション式)」のものなのだ。
こうして、いろんなことがつながって、とても楽しい今日この頃です。