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新しい人物画の表現

バロン吉元(漫画家)
1960年~1961年在籍

1960年の後半から1961年にかけて国が新時代へと大きな転換期を迎えた頃、私は練馬区豊玉上のアパートを出て、西武池袋線の桜台を出発し、池袋で山手線に乗り換え、渋谷で降りて都電で西麻布の通称高木町『セツ・モードセミナー』に通っていました。適当に。本当に適当に。と、言うのは私は長沢節先生のすべてを尊敬していましたが、教室の雰囲気になじめなかったからです。「田舎者は私だけ・・・」そんな劣等感を常に感じさせられていました。

私から観ると約30名の学生たちが皆お金持ちでオシャレに観えていたからです。ある日、お昼を階段の裏で食べているところを長沢先生に見つかって「おい、そんなところで隠れて食事をするな。教室で食べろ」と注意され、かじりかけのコッペパンと牛乳瓶を持って二階にしぶしぶ上がったときは、みんなにわらわれているような気がして最低の気分を味わったものです。しかし、最高の気分も味わった事もありました。いつものコスチューム・デッサンの時でした。美しいモデルを囲んでみんなが真剣に鉛筆をすべらせます。その音が聞こえるほどの静けさの中で、私は突然びっくりしました。いつの間にか私のすぐ後ろに長沢先生が立っていて、私のデッサンをみつめていたのです。先生の独特な眼力は怖いほどでした。すると先生は「おーい、全員こっちに集まれ―ッ」と声を上げました。「吉元のデッサンをよーく観ろ、これこそ本物のファッション・イラストレーションなのだ。生きたモード・デッサンなのだ。コスチュームの皺まで動きがあって生きている」(先生のお言葉をけっこうオーバーに表現しているかも(笑))長沢先生は私のデッサンを指で示しながら皆に伝えたのです。

今から58年前のことだけど、その時の事を覚えている同級生も健在かもね。クラス全員が私のデッサンに注目した時、たぶん私は全身真っ赤になっていたと思います。そんな事があって以来、私は完全に天狗になったのでした。長沢先生を身近に感じるようになって、コカコーラを飲んでいる逞しい労働者風の若者を描いたイラストを先生に自信たっぷりに直接観てもらったのでした。先生はなんと評したか。「君はチラシ描きになりたいのかね?」私はガックリです。天狗の鼻を折られました。あとで思ったのですが、あの時素直に「はい、チラシとかポスターとかを描いて仕事にしたいですね」と応えていたら先生も納得したと思えるのですが、返事が出来なかったところに私のアートに対する甘さ意気地なさが心を委縮させたのでした。私が『セツ・モードセミナー』に通った日数は1年足らずだったと思いますが、長沢先生から教えられた事は58年後の今日まで私の人生の原動力になっております。柔軟な精神力、広い視野、歌舞く事の面白さ、アートの探究心(また我田引水でございますハイ)私は改めて確信をもって長沢節先生の豊かさを思い出しております。あれはスペイン大使館の開催したフラメンコのアントニオ・ガディスとクリスチーナ・オヨスの来日を祝うパーティーでの事でした。会場で長沢先生とバッタリ、先生は出会い頭に言いました。
「君はなぜバロンなんだ?」

 

1件のコメント | RSS

  1. 星信郎 より:

    バロン吉元さん バロンさんのセツ先生の描写は再会の喜びです。 黒縁メガネの奥はぎょろ目、だぼだぼのタートルネックセーターはピンク色だったり、細い細いズボンで、最初びっくりしましたよね。

    1960年ごろに僕もセツに通ってました。 60年安保の気勢高まってる時でしたね。

    渋谷から路面電車に揺られて青山骨董通りを過ぎると高樹町で、セツの教室は笄町永平寺の境内、まさに寺子屋式でしたね、その教室はとんとんと二階に上る途中に便所があって、微かにニオイもあった、なんとも懐かしいです。
    そこでは皆さん派手でオシャレで僕も気後れしていました。バロンさんの物語を読ませてもらって共感しました。

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