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今になり、わかること

根本きこ(イラストレーター)
1991年~1996年在籍

 中学時代は、部活に燃えていた。
 陸上競技の幅跳びとリレー。なもので、高校に入学しても「陸上部に入る」と決めていた。しかし、高校選びにおいて、「偏差値内の選択」をしたのが大きなミスだった。結末から言えば、陸上部に入部したのだが、先輩たちはいっこうにグランドで走る気配はなく、「部室」というリビングでくつろぐのが「活動」の大半だったわけで。
 その挫折が「セツ」へのはじまり。
 実は、体育会系少女でも、毎月3日と18日はオリーブ少女になる。試合のときはポニーテールでも、休みになるとふたつに編んだおさげのなかに針金を入れて、「長くつ下のピッピ」に。試合のときは18mm針のスパイクだけど、憧れはおでこ靴。
 「セツモードセミナー」の存在は、そんなオリーブの誌面で知った。「なんかよくわかならいけど、とにかくものすごくおしゃれな気がする。」
 それが通学の理由になってしまうのが若さのつよみというか。(いや、もともと絵を描くのは好きでした)結局、陸上部には1学期で見切りをつけ、まるで川を遡上する鮭のような勢いで抽選会に向う。そして当選。
 こうして今、四半世紀振りに「セツ」を思い出す機会を与えてもらい、今だからよくわかることがある。小学校そして中学校、合わせて高校まで含めると、実に12年という月日を学校に費やしたことになる。でもほんとうの意味での「学び」は、セツがはじまりだった。かといえ、長沢セツ先生はじめ、星先生や初川先生は生徒たちに手取り足取り「教える」ことはしない。でも、確実に彼らからは上質な「学び」を受け取ったという実感がある。その「矛盾」が、とてもだいじな軸になっている。
 高校の終業チャイムが鳴ると、カバンをむんずと掴んで廊下を疾走。そのまま校門まで迎えに来ていた母の車の車内で私服に着替え、電車で目指せ、曙橋。そして帰りは終電。なもので、高校の授業中は眠気で気を失いかけていたけれど、それでも夜な夜なセツに行くのは、ほんとにほんとにいい「学校」だったからだ。
 脈々と、「セツの学び方」は、継承しているような気がする。少なくとも、3児の母となったわたしにとって、「教育」の根幹が「セツ」だということは、言うまでもない。

3 Comments | RSS

  1. 星信郎 より:

    根本きこさん、 これはびっくり! セツ先生肖像ドローイング、さらりと洒脱に軽やかに、しかも凛としてる。 これがまさにセツ先生のエスプリではないだろうか。
    ぼくもいま北村範史くんがやってるデッサン会に入って週一回描いてるが、なかなかこうはゆかないよ。
    根本さんの沖縄生活たのしそう、素晴らしいです。 ぼくもいま僕なりのお料理づくりしてますよ、食べたい一心、面白いですね。 星

  2. 根本きこ より:

    星先生からお褒めの言葉をいただけるなんて、うれしさでぽおっーとしています。(こちらに書く機会を与えてくれた北村くん、ありがとう)そして、肩書きがイラストレーターになっておりますが、とんでもない!主婦です、主婦。料理の仕事は続けておりますが、沖縄に行ってからは、主婦道まっしぐらです。星先生のお料理、さぞかし美味なのだろうなぁ!

    そしていつかきっと、デッサン会に伺います。みなさんの、鉛筆を走らせる筆圧の音に包まれながら、何枚も描きたいです。

  3. 藍色工房 より:

    根本きこさま

    私は1974年生まれの主婦です。22歳から3年間、曙橋の設計事務所で働いていました。毎朝、セツモードセミナーの横の急な石段をおりて事務所に通い、休憩時間になるとセツモードセミナーを眺めながらお茶を飲み、帰りには入口のタイル貼りの空間に飾られた、まだ描きたてホヤホヤでキャンパスから湯気が出ているような新鮮な作品を観て心をほぐして帰宅する、そんな日々を過ごしていました。
    夜coyaの時代から、きこさんの控えめでありながらも一生忘れられない美味しい料理を食べ、okuができてからは哩来くんのハイハイに癒され、結婚してからは 夫と2人で潤士さんのコーヒーを求めて茅ヶ崎から通い…きこさんには不思議な縁を感じます。一刻も早く波羅蜜に行きたい。それが今の私のセツなる夢です。

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