全国版コラム 7代先につなげたい、先人の心 https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin Mon, 08 Apr 2013 07:51:48 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.8.2 魂がつなげてきたもの 2 https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2013/04/%e9%ad%82%e3%81%8c%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%92%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%9f%e3%82%82%e3%81%ae-2/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2013/04/%e9%ad%82%e3%81%8c%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%92%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%9f%e3%82%82%e3%81%ae-2/#respond Mon, 08 Apr 2013 07:50:33 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=293 子どもの頃、私はメスのチャボを飼っていた。他にもいろいろ小鳥を飼って世話していたが、このチャボとは一種、不思議な関係が続いていた。

近所の年下の友達と遊ぶとき以外、私は多くの時間を庭で静かにしゃがんで過ごすのが常だった。チャボはニワトリに比して小柄で、子どもでも簡単に抱き上げることができる。私も抱き上げることもあったが、「よし、よし」とペットを撫でてかわいがるような接し方はしなかった。膝の上にそっとかかえると、チャボは居心地よさそうに丸まってうずくまる。普段は、庭の畑で存分に遊んだ後、チャボはいつも私のそばに戻ってきて、同じようにしゃがんでじっと座っていた。そうやってお互いにただ静かにじっと佇むことが多かった。薄暗くなるまで、身を寄せ合うようにして長い間一緒に座っていると、チャボと人間という種の違い、確固とした境界が溶けてなくなっていくような感覚に陥る。

私は庭にくる小鳥たちをただ見ることも好きで、その際にも、じっとしゃがみ続けた。当時、鳥たちと接するとき、私は自分の人間としての気配を消すように心がけていた。頭の中の思考を消すと意識が拡大し、ただ自由に「見る」存在に徹することができる。スズメやヒヨドリ、ツグミ、ヒワなど、みんな至近距離まで来てくれた。私は口笛、小鳥はさえずりで、お互いに相手を意識しながら声を掛け合うこともあって、かなり長く応答を続けることができた。そんな時は、人間的な言葉の感覚をすっかり忘れている自分がいた。本当に自由な世界を知っている鳥たちは、私にとって敬意を示すべき存在だった。

中学生になり、私は読書や音楽などの人間的な世界にのめり込むようになったが、チャボとは相変わらず言葉を介さない一体感を未だに共有していた。そんなある日のこと。学校での授業中、何の前ぶれもなく突然、「チャボが呼んでいる。すぐにそばに行かなくては」という思いがあふれてきた。それからは授業も上の空。当時、私は奈良から大阪まで電車通学していたが、学校が終わると駅まで走り、電車を待つ時間すら惜しいほどに、心はチャボの元に飛んでいた。帰宅して駆けつけると、待ちかねたかのようにチャボもそばに寄ってきた。いつものように一緒に佇むのだが、その日は言葉では言い表せない多くの感覚があふれてきた。同じ感覚をチャボも感じていることが、なぜだかはっきりとわかった。次第にあたりが真っ暗になっていくなか、ただ魂の存在だけを感じ合いながら、しみじみとした幸せな時空を分かち合い続けた。何かが飽和状態に達したのか、ふいに、「これでいい」というような感覚が訪れた。そして満ち足りた気分で、チャボは止まり木に、私は家の中へと向かった。

翌朝、チャボは亡くなっていた。しかし、私には悲しみや寂しさはまったくなかった。より広く自由な世界へと飛び立った、近しき同志への感謝だけが、心のうちに静かに広がっていた。昨日まで元気だったチャボの突然死、さらには、何年も世話していた私がさほど悲しんでいないことに、家族は驚いていた。私はむしろ、チャボとの絆がより強くなったようにすら感じられたのだ。魂と魂の交歓は、感情や理性を超える。子ども時代、私は確かに目には見えない広大な世界を感じていた。

…沖縄での旅の途上、目前に舞い降りてきてはサインを送り続ける鳥たちを見つめながら、私は久々に子どもの頃の感覚を思い出していた。あれから30年以上を経た、今の私。大切な人の魂の奥底からのサイン、本当の心の声を、時空を超えてキャッチできるほどに、私は魂を開放して生きてはいない。それは無意識、潜在意識の領域であって、その扉を開けたままでは、忙しく世知辛い日常を乗り切ることはできない。亡き人の魂を求めれば求めるほど、見つめなくてはいけない、自らの魂の深淵。子どもの頃のように、魂を開け放つことができたなら、旅立った大切な人との絆を感じることができるのだろうか。どうしたら、その錆び付いた扉を開けることができるのだろう。
 
魂がつなげてきたもの
 
 

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魂がつなげてきたもの 1 https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2013/02/%e9%ad%82%e3%81%8c%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%92%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%9f%e3%82%82%e3%81%ae%ef%bc%88%e5%89%8d%e7%b7%a8%ef%bc%89/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2013/02/%e9%ad%82%e3%81%8c%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%92%e3%81%a6%e3%81%8d%e3%81%9f%e3%82%82%e3%81%ae%ef%bc%88%e5%89%8d%e7%b7%a8%ef%bc%89/#respond Mon, 25 Feb 2013 03:39:35 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=282 地球上に誕生して以来、長い歳月を超えて脈々とつながってきた生命。すべての生命は、原初の祖先から引き継いできた遺伝子を持っている。私たちが意識する、意識しないにかかわらず、誰もが太古の祖先とつながっているのだ。しかし普段の生活では、はるか遠い祖先との絆を体感できる機会はほとんどない。それでも何かの拍子に訪れる、内なる古い魂が蘇ってくるかのような感覚。そんな体験を持つことがある。私の場合、沖縄などの南西諸島を訪れると、細胞の中のプリミティヴな力が立ち上ってくるかのような、不思議な感覚に満たされる。太古の時代まで遡ってみれば、彼方の南方に生きた祖先がいたのかもしれない。自らの魂の記憶のためか、南西諸島に来ると、目に映る自然の景色がとても近しく感じられる。力強く延びる枝葉や気根、鮮やかな色彩の花々。生命の喜びをあますことなく謳歌しているような自然に囲まれるだけで、力強いエネルギーを与えられるような気がする。

私はもう何十回となく沖縄を訪れてきたが、その都度、いとも不思議なプロセスに巻き込まれることになった。多様なカミンチュ(シャーマン)たちと出会い、ウガン(拝み)に同行して聖域を巡る流れになっていくことが多かった。この不可思議な数々の体験は、宗教化する以前のプリミティヴな霊性の在り方について、多くの教えを私にもたらしてくれた。そのアニミズム的な観点で日本を見直したとき、より古い基層文化に、今も確実にその精神が息づいているのが感じられる。例えば大和高原でも、集落ごと、家庭ごとにやり方が異なるような古い祭祀が今も継承されている。あまりにも多様で、数例を挙げるだけでは誤解を招いてしまうのではないかという危惧を、いつも感じるほどだ。しかし、南西諸島のカミンチュたちの祭祀の手法は、さらに多様だ。もちろん、基本となる拝み方はある。琉球王朝時代の社会的なヒエラルキーや書物の普及が、祭祀の統一化を促した側面もあるのだろう。沖縄の生活文化が共有するおおまかな型に則って、多くのカミンチュたちは、師に学んだことを礎に(師につかないカミンチュも多い)、目に見えない存在との対話を臨機応変に行っている。

南西諸島での経験は、私にとって実に深い学びだった。しかし、非日常的な体験を重ねれば重ねるほど、日常生活を基本とした内的な成長を抜きにして、聖地で何らかの作業にかかわることに大きな危険性を感じるようになっていった。目に見えない世界は、目に見える世界に比して、あまりにも深淵で広大だ。人間的に成熟していない段階で、その深みにかかわってしまうと、とんでもない落とし穴が待ち受けていることが多い。沖縄のカミンチュたちが、目に見えない存在と本格的にかかわり始めるのは、子育てが一段落し、人生でいくつかの艱難を経験した後、たいがい40歳代半ば以降だ。私には、まだまだ学ぶべき現実の世界がある。いつの頃からか、私は聖地でのウガンを意識的に自粛するようになった。

それでも南の自然に触れると、魂のうちに眠る何かが強く喚起されていく。先月、家族とともに久々に訪れた沖縄でも、やはりその感覚だけは抑えることができなかった。大地から放散される力、植物や動物たちからの誘いが、ダイレクトに心身に響いてくるのだ。今回の沖縄滞在で内なる扉を開ける鍵となったのは、鳥たちだった。大阪の空港前の道路で、つがいのセキレイが幾度も近寄ってくる。沖縄に到着後は、訪れた先に必ず目前に鳥が現れては、意味深なふるまいを見せる。間近に降りてきて、こちらをじっと見つめながら、鳴き声を上げる。何度も振り返りながら、行き先を案内するかのように、道先を飛び歩く。風景のなかで、近寄ってくる鳥だけが、異様な存在感をもって迫ってくるのだ。その都度、彼らが何かを伝えにきているという直感はするものの、勝手な解釈はしたくない。心のなかで鳥たちを意識しながらも、沖縄の家族旅行を楽しんでいた。思わぬ再会に恵まれ続けた珍道中であったが。

 

今回、一番長く滞在した離島の浜。はるか東方からうち寄せる、美しいさざ波

今回、一番長く滞在した離島の浜。はるか東方からうち寄せる、美しいさざ波

 

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未来を呼び招く、子どもの眼差し https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/12/%e6%9c%aa%e6%9d%a5%e3%82%92%e5%91%bc%e3%81%b3%e6%8b%9b%e3%81%8f%e3%80%81%e5%ad%90%e3%81%a9%e3%82%82%e3%81%ae%e7%9c%bc%e5%b7%ae%e3%81%97/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/12/%e6%9c%aa%e6%9d%a5%e3%82%92%e5%91%bc%e3%81%b3%e6%8b%9b%e3%81%8f%e3%80%81%e5%ad%90%e3%81%a9%e3%82%82%e3%81%ae%e7%9c%bc%e5%b7%ae%e3%81%97/#respond Sat, 08 Dec 2012 03:02:20 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=264 3.11以来、日々、痛感していることがある。現代社会が、すべてのツケを未来に押しつけていたこと。現代社会は、未来を担うはずの子どもたちを上から見下ろすように、大人の目線で管理する対象として見ていたに過ぎなかったのだ。

大和高原では、子どもたちが深くかかわる数々の祭りに触れる機会が多い。そこでは大人たちの暗黙の了解の下、様々な年齢の子どもたちが無礼講を謳歌することが多いが、年上の子が年下の子をそれとなくなだめたりして、自然と収拾がつく。たとえば、「昔の当家(祭りの世話を中心的に担う家)は、子どもらが暴れてもいいように、事前に床の傷みを修理して臨んだ」というほどに、当家宅で元気いっぱいに子どもたちが遊びまわる山添村勝原の「涅槃会」。隣室で控えている当家の大人たちは、一言も口出しをしない。「昔はもっと暴れたもんや」と、思い出話に花を咲かせている。そして、年下の子どもの面倒をみる、最年長の子どもの様子も、実におおらか。祭りは、無礼講を通して信頼関係を生み、子どもの目線を思い出させてくれるのだ。

もっとも古い型によって、もっとも新しい生命を招く。表面的には古式が強調されるものの、常に新たな霊性の更新を志向する、伝統祭祀の本質。子孫繁栄、五穀豊穣の祈願とは、積極的に未来を呼び招く行為であった。反して、未来を呼び招くどころか目を閉ざしてしまった現代社会。3.11以降、その流れはますます強化されてしまったように感じていた。しかし先月、衆議院が解散され、総選挙が告示されるに及んで、この選挙を一種の祭りのように感じ始めている。つまり、「未来を招く行為」であるということだ。選挙というものが、より積極的に新たな社会を招くものであることを、私たちは久しく忘れていたのかもしれない。

私が感銘を受けてきた多くの祭りには、江戸時代の精神性が色濃く残っている。祭りに関する申し送り書など、地域の古文書の大半は江戸時代のものであり、その頃に祭りの型が出そろったのかもしれない。明治維新によって富国強兵が提唱され、江戸時代以前の生活文化が否定的に捉えられるようになってからも、祭りによって、その精神性は細々と生きながらえてきた。7代先の社会を考えるために、7代前の江戸時代の型をヒントにするというのは、祭り的な発想だ。マイナスなイメージのある江戸時代の鎖国政策は、日本の生活文化を開花させ、鎖国前よりも貿易量はむしろ増加させた。ここでもう一度原点に戻って日本の型を新たに見直し、次なる社会を選びたいと思っている。それは言うなれば、生まれくる子どもたちに代わっての投票。子どもたちは、そして、自分が子どもだったら、いま何を望むだろう。子どもたちが活躍する祭りのように、私たちはいまこそ、子どもを中心とした未来を呼び招かなくてはいけない。普段、私たちが小さな子どもたちに伝え、教えていることを、そのまま自らに言い聞かせなくてはいけないのだ。

ところで、子ども時代の回想を歌う「赤とんぼ」は大正時代に作詞された童謡だが、その思い出の舞台は江戸時代から変わらぬ山里だった。2番の歌詞では「山の畑の桑の実を小篭に摘む」という今夏の思い出が描かれている。私が所属している「大和高原文化の会」では毎年、桑の葉を集め、古道具を使った養蚕を実施しているが、大和高原の「小篭」の形を初めて知ったのは、今夏のことだ。「子どもの頃、収穫後の麦藁を編んで、桑の実をよう入れとったもんや」と、ストローで代用して編んだ小篭を一人の古老から見せて頂いて、驚いた。なんとモダンなデザインだろう。ほかの古老たちも懐かしそうに頷いている。大和高原で、古くから編まれてきたであろう小篭。誰もが知っている「赤とんぼ」の状景、そして古老たちの子ども時代の思い出が、自給自足の生活のなかで、こんなにも豊かで美しい手すさびを含んでいたとは。

桑の実を摘んで入れていたという小籠を、ストローで再現。麦藁でここまで細かい篭を編んでいたとは、昔の子どもの器用さに驚かされる

桑の実を摘んで入れていたという小籠を、ストローで再現。麦藁でここまで細かい篭を編んでいたとは、昔の子どもの器用さに驚かされる

「大和高原文化の会」が運営する大和高原民俗資料館内で、毎年実施する養蚕。今年は奈良市内の幼稚園から子どもたちが見学にきてくれて、大賑わい

「大和高原文化の会」が運営する大和高原民俗資料館内で、毎年実施する養蚕。今年は奈良市内の幼稚園から子どもたちが見学にきてくれて、大賑わい                         

 

振り返って私たち、そしていまの子どもたちは、将来、どんな思い出を伝えることができるのだろうか。選挙という重要な祭りにあたって、7代先につながる子どもの目線に戻りたいと、いま、切に思う。

 

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

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声なき声に耳を傾けて https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/11/%e5%a3%b0%e3%81%aa%e3%81%8d%e5%a3%b0%e3%81%ab%e8%80%b3%e3%82%92%e5%82%be%e3%81%91%e3%81%a6/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/11/%e5%a3%b0%e3%81%aa%e3%81%8d%e5%a3%b0%e3%81%ab%e8%80%b3%e3%82%92%e5%82%be%e3%81%91%e3%81%a6/#respond Wed, 07 Nov 2012 05:19:38 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=240 消えつつある生活文化

私は、小学校から大学まで、中退した大学院を加えると、17年間ほど教育機関に在籍したことがあります。しかしその期間、地域の生活文化について学ぶことは、まったくありませんでした。幼少時に新興住宅地に引っ越したため、育った町は地域色に乏しい環境。それだけに幼い頃、祖父母の暮らす山間の田舎で過ごした体験は、思い出の中でそこだけ切り抜いたように強く印象に残っています。
大鍋のような五右衛門風呂の風呂焚き、離れまで行かなくてはいけない汲み取り便所、濃厚な空気が漂う薄暗い漬物部屋……。それは紛れもなく、江戸時代以前の暮らしが息づく世界でした。その神秘的な空気感は、怖いながらも魅力的で、いろいろと想像をめぐらせたものです。しかしその濃厚な空気の源になっていたのが、もっとも小さくて目立たない、寡黙な祖母であったことに気づいたのは、彼女が亡くなった後でした。自作の筵の上に座り、箕の中の豆をせっせとよっている祖母の姿が、今も時折、思い浮かびます。豆には多くの種類がありましたが、それらが貴重な在来種であったと気づいた頃には、時すでに遅し。自ら語ることをせず、いつも何かしら手を動かしている、それが祖母のイメージでした。

この島国の生活がどのようにして営まれてきたのか、大和高原に暮らして初めて、学ぶ機会を与えられました。当地では、平野部に比べて自給自足の時代が数十年遅くまで続いたために、私の祖母に似た古老たちと、まだ直接お話できる機会があります。しかし年々、その機会は確実に少なくなってきています。
村の外に伝えるという意志がなかったために、存在すら気づかれることなく、消滅しつつある、この島国の貴重な生活文化。多くの古老は、亡き祖母同様、あえて言葉で何かを表現しようとする習慣をもっておられません。古老たちにとって、昔と価値観が逆転してしまった現代は、村の外、異なる世界になってしまっているのです。

目に見える部分だけでなく、心で感じる

その一方で、近年ますます、田舎ならではの生活文化が見直されてきています。当地にも、大学などの研究機関から、多くの方々が訪れてくださる機会も増えてきました。若い学生さんたちの素直な反応が、地域の方々の励みや誇りとなり、地域を見直すよい機会になっています。特に、昔の手技や言葉、民俗学を研究されている方々との交流はとても楽しく、若返ったかのように活き活きとされる古老たちの様子を見ているだけで、嬉しくてたまりません。
しかし、口下手な地元の方々がより寡黙になってしまうケースもほんの時折、見受けられます。その根底には、現代社会が信奉してきた「進歩」に対する無意識的な価値観の違いがあるのかもしれません。地域活性化に関して、外からのアドバイスはとても貴重です。しかし、先祖代々、長く住み続けてきた地域の方々にとって、目には見えないけれど、そこを外すと活性化どころか、衰退してしまいかねない、とても大切なものがあります。机上では感じ得ない、内に秘められた地域の心。それが一体、何なのか、おぼろげながらでも感じることを、一番の目的にして頂きたいと思います。それは、人間としての学びそのものでもあります。「『地域活性化について論文を書きたいけど、地域の方の意見が聞けない』と言う学生がいる。でもそれは仕方ない。わしらの本当の気持ちを見ようとせずに、一方的な押しつけの論文や提案に力を注いでいるから。近藤さん、もっと書いてくれ」。これに類する意見を何度か言われたことがあります。しかし、未熟な私はその心を表現できる言葉をまだ見つけることができていません。

私は不器用なために、百姓の手技を覚えることが苦手です。なので、学びの目的を「江戸時代以前の暮らしを支えていた心を感じるため」と見得をきっています。しかし、目に見える部分だけではなく、心を感じるのは簡単なことではありません。常に目立たないところ、地味なところに注目し、子どものように素朴な目で見て、本音で接していくうちに、あるとき突然、地域の方々の雄弁で饒舌な表現が伝わってくるときがあります。今の現代社会ではなかなかお目にかかれないほどの、底抜けにあけっぴろげな陽気さ。そして、時として過酷な共同作業のエネルギー源が、子どもの頃に感じていたシンプルな達成感や満足感と同質のものであることに気づきます。その言葉にできない喜びを、十分に知り尽くしておられるのです。
古来、多くの村人たちは、外に対して目立たずに生きながら、あえて外に知らせる必要がないほどに、自分たちの本当の力、本当の幸せを知っていたように思えてなりません。決して特別ではない、名もなき一人一人こそが、本当の力を持っている。時代の岐路に立つ今、それに気づくことを促す声なき声が、聞こえてくるような気がするのです。私の祖母は、本当は寡黙ではなかったのかもしれません。

小さなところに目を凝らして

戦前から戦後、高度経済成長期にかけての激動の時代、全国をくまなく歩き続けた民俗学者、宮本常一。彼が記録した戦前の田舎には、まだ生活の中に歌と踊りが満ちあふれ、「生きよう、生きなくてはいけない」という人々の根源的な意志が、社会の底辺にまでつながっていました。古老たちが目指した「豊かさ」の多くは母なる故郷とつながるものであり、それは離れていても心のどこかに流れる地下水のような存在でした。そのような大切な宝物を、現代の私たちは心に持つことができるでしょうか。
移住者として、私はまだまだ学びの真っ最中。何歳からでもスタートできる学びですが、今しかできない学びでもあります。うまく表現できなくてもいい。失敗の連続だっていい。見落としがちな小さなところに目を凝らし、嘘のない、心に残る体験を重ねることが、未来への道程へとつながっていくのだと信じています。最後に、宮本常一の晩年の言葉を以下にご紹介して、今回は締めくくりたいと思います。

宮本常一『民俗学の旅』(講談社) ~「若い人たち・未来」の章より

 いったい進歩というのは何であろうか。(中略)失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。進進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくとも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらにぶっているように思うことが多い。
 多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。大事なことを見失ったために、取りかえしのつかなくなることも多い。(中略)これからさきも人間は長い道を歩いてゆかなければならないが、何が進歩であるのかということへの反省はたえずなされなければならないのではないかと思っている。

大和高原、某集落の聖域へつながる山道。心の最奥にある宝物を、私たちは守ることができるのだろうか。

大和高原、某集落の聖域へつながる山道。心の最奥にある宝物を私たちは守ることができるのだろうか

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。


■お知らせ■

祈りの舞&マナナ コンサート
「阿蘇~奄美~沖縄~宮古をつなぐ女性たちのウォーク、ぽのぽのマーチ」からのメッセージも。前座の歌姫にもご期待!

日 時:2012年11月18日(日) 17:00~
場 所:奈良県宇陀市大宇陀区大東45 報恩寺 0745-83-1341
近鉄大阪線「榛原」駅から、奈良交通バス「大宇陀道の駅」行、終点バス停から徒歩10分
料 金:当日1800円 ご予約1500円
問合せ&ご予約:wa-wa@kcn.jp 近藤まで

☆15:30~16:30 大地と天に祈るダンスワークショップ ~スーフィカタック~ (講師:あみ) 1000円 要予約
自分と地球の魂を感じて大地に祈り 火水地球に感謝し、風に舞い天へと舞踊りましょう。気功とインド舞踊をとりいれたダンス体験。
☆19:00~ 交流会 500円 要予約

Profile
あみ(祈りの舞 スーフィーカタック)
92年より、一年の半分はインドで生活し、半分は日本を旅。02年よりインド古典舞踊カタックダンスをベナレスのO.プラカーシュ・ミスラ氏に師事。イスラム神秘主義の流れをくむスーフィーカタックをM.チャットルべティ女史に師事。北インド古典舞踊カタックとスーフィーのメッセージ「愛と光・神秘」の踊りを学ぶ。自然のエネルギーと心ひとつ、月に踊り、風に舞い 、大地に祈る。そんな旅を、今も続けている。

マナナ
各々異なるバックボーンを生かした神秘のリズムと響き。大和の地で、古今東西のスピリットを融合。
山口智:ハンマーダルシマー
山浦庸平:パーカッション、チベタンボウル
ユッキー:ドラム、パーカッション
近藤夏織子:リコーダー、ハルモニウム、唄

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伝え合うことを、あきらめない。 https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/08/%e4%bc%9d%e3%81%88%e5%90%88%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8%e3%82%92%e3%80%81%e3%81%82%e3%81%8d%e3%82%89%e3%82%81%e3%81%aa%e3%81%84%e3%80%82/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/08/%e4%bc%9d%e3%81%88%e5%90%88%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8%e3%82%92%e3%80%81%e3%81%82%e3%81%8d%e3%82%89%e3%82%81%e3%81%aa%e3%81%84%e3%80%82/#respond Wed, 29 Aug 2012 02:30:05 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=224 この8月、富山大学人文学部の中井精一先生と研究室の学生たちが、方言調査のために大和高原を訪れてくださった。私が所属する「大和高原文化の会(文化の会)」が受け入れコーディネーターとなり、奈良市東部山間、山添村、桜井市東部山間の数カ所の集落へと、学生さんたちをご案内した。学生たちによる、古老たちへの聞き取り。中井先生のご指導の賜物だろうか、学生たちはみな謙虚で礼儀正しく、とても丁寧に質問を進めている。大和高原の方言は、奈良盆地のそれとは、微妙に異なる。隣り合った集落なので言葉が似ていると思いきや、昔はかなり異なる集落もあったという。聞けば、地理的に鬼門の方位にある集落とは婚姻関係をあまり結ばなかったため、言葉も交じりにくかったそうだ。それにしても、オジイ、オバアの言葉は、ほっこりと心がなごみ、じんわりと余韻が残る。「『ものをとってください』って、どう言いますか」。90歳代の女性が、やさしく応える。「ちょっとすまんな、それ、とってんけぇ」。

「文化の会」の会員は、私を除いて、全員が60~80歳代の古老たち。方言調査に集まってくださった集落の古老たちは、80~90歳代。朴訥と話す自給自足時代の古老たちと、驚きまじりに頷く若者の姿は、あたかも祖父・祖母と、孫。あるいは曾孫だろうか。古老の話に耳を傾ける彼らの様子を眺めていると、胸がいっぱいになる。なにかとても大切なものが、若者たちに伝わっていく。彼らの謙虚さは、教員による的確な指導だけが理由ではないことが、すぐにわかった。教育機関では決して教えてもらえない、古老の話。その感動が、自然と所作に現れているのではないだろうか。調査と称して持論を押しつけ、論文に都合のいい素材だけを持ち帰る研究者も少なくない昨今、ライフヒストリーを含めて、あるがままの話を拝聴し、素直に言葉を返すという素朴な対話が、教育、地域づくりなど、すべての人間関係に通じる原点であるということが、痛感される。方言は、このような人と人の近しい関係のなかに、伝えられてきたのだ。

数百年、いや数千年もの間、土地の言葉で継承し、教えられてきた智恵。そこには、多様な人間同士のたえざる葛藤もあっただろう。大和高原に暮らすなかで、特に柳生地区で各種会議が長引く傾向にあるのが、当初は不思議だったものだ。役場が身近にない(昭和30年代に奈良市に合併されたものの、市役所まで車で40分かかる)ことで、昔ながらの風習がかえって残されたのだろう。普段は大阪まで通勤し、地元以外では方言など使わなさそうな人までもが、とにかく何でもかんでも、方言まるだしで、よくしゃべる。無口な人もけっこう多いが、そういう人たちも要所要所で端的な意見を述べ、それが全体の流れを意外なまでに変えたりもする。さんざん話が脱線して、あらゆる意見が出尽くして、それで最終的にやっと結論が決まったときには、なにかとても晴れ晴れしいというか、爽やかな気分が広がる。反対意見を出してご機嫌ななめだった人たちも、長々と話し合っているうちにほだされて、納得し始める。お役所でありがちな型どおりの会議なんてものはなく、嵐を起こして船をひっくり返し、誰もが予期せぬ意外なところに漂着したりするから、けっこうおもしろい。

大和高原で時として体験するようになった「長丁場の話し合い」。その雰囲気のルーツとでも言うべき「寄り合い」の原風景が、民俗学者の宮本常一の著書『忘れられた日本人』にみられる。昭和25年、民俗調査に出向いた対馬での寄り合いの様子を、宮本は詳細に記録している。寄り合いで何かを決めるとき、全員が納得のいくまで、何日もかけて話し合っていたのだ。当時、そのような村は西日本では少なくなかった。宮本が対馬の伊奈に滞在した時、村では、話し合いはすでに2日目に入っていた。「村の古文書を借用したい」という宮本の願いが新たに議題に加わり、関連する話に花が咲く。あれやこれやと借用をめぐる体験談や見聞が語られ、そして、また一旦、別な議題に流れていったりする。なかなか決まらないので、とうとう宮本自身が寄り合いに出向いて、「島でクジラ漁をしていた頃の貴重な古文書である」と伝えると、かつてのクジラ漁についての思い出話が続く。そうやって一見、のんびりしているが、次第に話を展開させながら、1日がかりで、ようやく古文書を貸し出すことに決まったという。そこで宮本は古文書を受け取り、場を後にしたが、ほかの協議はまだまだ続いているようだった・・・当時の古老曰く、「子どもの頃は、話し合いの途中、空腹になったら食べに帰るということをせず、家人が弁当を届けに行った」。夜はその場で寝る者もいれば、徹夜で話し明かす者もいる。しかし、どんなに難しい話でも、たいてい3日で、「みんなが納得のいく」結論が出たという。

かつて先人たちは、共に生きる仲間との対話をあきらめなかった。思いを分かち合い、「寝食を共にしながら」語り合った。学び、気づき、癒し、感情と体験の分かち合い・・・そこは、とにかくいろんなことが湧き起こる時空だったに違いない。メディアではなく、本当の声に価値があった。その多様なざわめきから生まれ、醸されてきた方言。その響きの向こうには、言葉を超える時空が広がっている。

私は、大和高原の方言をうまく話すことができない。でも、できることはある。身近な人の思いにただ耳を傾け、自分の本当の思いを伝えること。上手に言えなくてもいい、遠回りしてもいい。あきらめさえしなければ、きっとどこかに漂着できるはずだ。

一晩語り明かす。これは誰しも学生時代には体験してきたことではないだろうか。しかし、年齢を重ねることで、私たちは本当の思いにフタをしてしまう。本当の思いを伝えてしまうと、相手を傷つけてしまうのではないか。自分が傷ついてしまうのではないか、と。一番大切なことは、個人のささやかな思いの内にあり、それが時として全体を救うことにつながることもあることを、先人たちは知っていたのだ。
いい年した大人たちが、恥も外聞もなく、本気で長時間、語り合う。実のところ、これだけでもう、もっとも大切な目的を果たしていることになるのだろう。それは、困難を乗り越え、英断を実行することのできる、信頼関係。つまり寄り合いとは、人と人の本当の絆を生み出す共同作業なのだ。

振り返って今、本当の思いを分かち合うこともなく、表面的な「絆」を掲げる私たちの国の政府。本当の絆とは何なのか。私たちはその基本中の基本を、忘れてはいないだろうか。隠さない。決めつけない。あきらめない。あるがままで、いい。胸にため込みすぎてしまった思いを解き放ち、長らく中断してきた話し合いを、再開すべきときがきている。大切なことを、話し合おう。未来のために。

8月の早朝。山添村、神野山の中腹から望む朝霧。当地では、かつて、寺社で共に夜を過ごし朝を迎える「おこもり」がよく行われた。夜は「ココだけの話」も多く語り合われたという。

8月の早朝。山添村、神野山の中腹から望む朝霧。当地では、かつて、寺社で共に夜を過ごし朝を迎える「おこもり」がよく行われた。夜は「ココだけの話」も多く語り合われたという。

 

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

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人の暮らしと心を映す、里山の景色 https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/06/%e4%ba%ba%e3%81%ae%e6%9a%ae%e3%82%89%e3%81%97%e3%81%a8%e5%bf%83%e3%82%92%e6%98%a0%e3%81%99%e3%80%81%e9%87%8c%e5%b1%b1%e3%81%ae%e6%99%af%e8%89%b2/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/06/%e4%ba%ba%e3%81%ae%e6%9a%ae%e3%82%89%e3%81%97%e3%81%a8%e5%bf%83%e3%82%92%e6%98%a0%e3%81%99%e3%80%81%e9%87%8c%e5%b1%b1%e3%81%ae%e6%99%af%e8%89%b2/#respond Thu, 21 Jun 2012 08:02:45 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=203 「明快なる風光が、どれほど島の人の心をやわらげ明るくしたか分からない。古くは春の光なごやかな日など、人びとは多く浜に出て、そこに筵をしいて藁仕事や針仕事をしつつ談笑していた。静かな夕暮には山から仕事を終えてかえった人たちが、浜や石垣の上に集まって沖の方を見つつ少時を雑談した」

 

民俗学者の宮本常一が思い起こす、郷里である山口県大島のうららかな景色。ただ自然だけではない、人と自然が交わるなかで醸し出される、和やかさと温もりが彷彿される文章だ。

私が暮らすここ大和高原の景色も、毎日眺めていて飽きることがない。景色を愛でるには、車よりも徒歩や自転車がいい。以前住んでいた柳生地区は平地が多く、自転車を愛用していた。地元での用事を終えた帰途、自転車に乗る私に会釈を返してくれる、里の方々。美しい里の景色を見渡しながら、ゆっくりとペダルをこいでいると、理由もなく上機嫌になってくる。心地よい風に吹かれながら、鼻歌の一つでも歌いたくなるのだ。

当地では、玄関先に椅子が置かれている民家がままある。夕暮れ前、野良仕事を終え、何をするでもなくその椅子に腰掛けて一休みし、里を眺める古老。はたまた、田んぼの畦に腰掛けて雑談するほっかむりのオバアたち。景色と一体化した古老たちの存在が、より美しさと温もりを広げてくれる。

日々の煩事を包み込み、じんわりと癒してくれる里の景色。自然そのものだけでなく、適度に人の手が入った温もりが加わるからこその、美しさ。守り、守られてきた、その名もなき先人たちの思いも共に広がっているからこそ、美しい。それは得も言われぬ幸福感だ。

もし読者が田舎に旅して、夕暮れ時、田畑に立つ古老を見かけることがあったら、声をかけさせてもらうといい。きっと、何気ないやりとりに、胸が満たされるはずだ。その温もりこそが日本の原風景だ。その中に是非、入ってほしいと思う。

 

日本の原風景の美しさは、本来、生活と仕事から切り離せないものだ。風土に合った生活と生産活動が、より地域色ある風土を生み出す。大和高原は、吉野地方ほど険しい山間部ではないために、茶の栽培など、なだらかな斜面を利用した地場産業が発達した。そして山行き(山仕事)は主に、製材のための林業ではなく、炭や燃料にするための薪や柴を確保するために行われた。

「昔は、どの山も柴山(薪や柴をとる雑木林)で、今ほどうっそうとしていなかった。今は木を切らへんから、キノコが上がって(生えて)こえへん」と、古老たちは口をそろえて言う。雑木は切り出しても、30年経てば、きれいに再生する。30年という単位は、次代に資源を残すのにちょうどいいタームなのだ。

凍らせたり乾燥させていない豆腐を、「白豆腐」とよんだ。

凍らせたり乾燥させていない豆腐を、「白豆腐」とよんだ。3種類の敷き布を型に入れて、くだいた大豆を中に入れ、重石を乗せて絞って白豆腐をつくる。

そして凍豆腐(高野豆腐)の製造も、当地の自然を活かした冬場の重要な産業だった。江戸末期に高野山から技術を習得した里人の起業を発端に、明治期から昭和30年代まで、一時は隆盛をきわめた凍豆腐づくり。製造過程で清水を大量に使うため、豆腐小屋は、渓流沿いに建てられた。大豆を炊く燃料には薪、大豆を挽く動力源には水車を使用。そして冬期の冷え込みを利用して夜、野外で凍らせた。凍ったら母屋(もや)の室に数日間ならべ、熱湯でもどす。絞り箱で水を除いた豆腐を、細竹で編んだス箱の上で乾かす。ホイロの熱源は薪で、煙道で熱を引き入れる地釜式だった。後に大豆を挽くのに石油発動機を使うようになったが、明治期までは、生産に使うエネルギーをすべて地域の自然から得ていたのだ。

多種多様な職人がかかわる凍豆腐づくり。それに伴って、さらに多くの仕事が活性化した。豆腐型や刃物などの道具をつくる人、薪や柴をつくる人、それを牛馬で運ぶ人、オカラを餌に牛を飼う人、製品を入れる木箱をつくる人、木箱に貼るラベルを印刷する人…。最盛期の大正時代から昭和20年代にかけては、奈良盆地に向けて凍豆腐を運搬するための索道(荷物専用のロープウェイ)が開通し、大和高原の小倉、針、山田の各駅には原料と製品が山のように集められた。主な職工たちは、灘の酒づくりにおける杜氏と同じく、兵庫県但馬地方から出稼ぎで滞在したため、冬場の賑わいは格別であったという。仕事とエネルギーが循環することで、里全体が活性化していたのだ。

白豆腐を中に入れて、押し切りする箱。

白豆腐は、普通の豆腐よりニガリを多めに入れているので固い。白豆腐を中に入れて、押し切りする箱。裁断した白豆腐を、板にならべて凍らせる。

大量の大豆を出し入れするときに使う、竹製のロウト。

大量の大豆を出し入れするときに使う、竹製のロウト。竹細工を農閑期の仕事にする家も少なくなかった。これに紙を貼って柿渋を塗ったものは、米を俵に詰めるときに使った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時代の趨勢に押されて衰退した凍豆腐づくりであるが、山間資源を地域色豊かに活用した一連の営みのおかげで、今も大和高原には雑木林が点々と残り、景色に明るさを加えてくれている。景色は、先人たちの仕事の集積でもあるのだ。今の私たちに残された仕事は、何らかのかたちで、地域の資源を活用することなのかもしれない。

例えば小型水力発電は、日本の大部分を占める山間地にふさわしい発電方法だ。現在、水資源の豊富な山間地でも、電力を遠隔地から引いているところが少なくない。小型水力発電を導入して発電会社を立ち上げることで、地域ごとに仕事が生まれる。それは単なる電力ではなく、地域を守る力でもある。

「国民の生活を守る」という詭弁によって、今、何の反省もなく大飯原子力発電所が再稼働されようとしている。地域の自然から隔絶された巨大なハコモノが林立する、寂しい風景。その景色では、目には見えない何かが失われている。「生活を守る」ということの奥深さを、私たちは絶対に忘れてはならない。それは即ち、地域を守り、景色を守り、人の心の温もりをも守ることであった。自然なくして人は生きることはできない。風土に根ざす営みを守る政策へと大転換することでしか、もう大切なものを守ることはできないのだ。

今、広がっているこの美しい景色が、7代先にも人々の心を癒してくれるものであってくれるだろうか。その岐路に至る時間は、もう長くはない。

 

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

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https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/06/%e4%ba%ba%e3%81%ae%e6%9a%ae%e3%82%89%e3%81%97%e3%81%a8%e5%bf%83%e3%82%92%e6%98%a0%e3%81%99%e3%80%81%e9%87%8c%e5%b1%b1%e3%81%ae%e6%99%af%e8%89%b2/feed/ 0
玉手箱を開けるとき https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/05/%e7%8e%89%e6%89%8b%e7%ae%b1%e3%82%92%e9%96%8b%e3%81%91%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%8d/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/05/%e7%8e%89%e6%89%8b%e7%ae%b1%e3%82%92%e9%96%8b%e3%81%91%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%8d/#respond Wed, 02 May 2012 03:53:43 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=142 「7代先につなぐ」。言葉にするのは実に簡単だが、現代の日常生活のなかでは、具体的に「7代」の歳月を感じることができる機会は、とても少ない。7代前の記録が残っている家はきわめて稀であるし、たとえ古文書があったとしても、当時の日常を体感することは難しい。例えば、博物館で展示されている古民具を見たからといって、先人とのつながりを体感できるものではない。むしろ、ガラスケース越しという非日常的な見学という行為が、現在との隔たりや断絶を強調してしまうことが少なくないように思う。

もちろん、急激な変化にさらされている現代社会でなくとも、昔から「7代」という年月はきわめて長いものであることに変わりはない。「7代」をつなぐために、先人が考え出したアイデア。それは、「みんなで協力して思い出す」仕組みづくりだったのではないだろうか。その集大成が、「祭り」なのかもしれない。

祭りで特筆すべきことは、神前への供物や直会での膳が、非常に古い食文化の再現の場になっていること、そして、家元制度などによる画一化や特権化が進む以前の、庶民による庶民のための芸能の有り様を示唆していることである。

祭前日に、当日の直会の場に置く鶴と亀を制作する。

祭前日に、当日の直会の場に置く鶴と亀を制作する。直会は正式な謡酒盛で、進行順序は厳密に定められている。正座に置かれた雌雄の鶴と亀は、一同に回覧する段になると、雌雄を左右に分けて上座から下座にまわされる。その際、各々、膳ごと持って眺めては「今年のは上出来や」などと感想を述べながら、隣へまわしていく。

大和高原では、多くの集落が、数百年ほどの歴史ある古物を共同管理している。それらはガラスケースに常設されることなく、普段は古めかしい木箱に収められていることが多い。なので、いつでも見ることができるものではない。木箱はいわば、何代にもわたって手渡されてきた秘密の玉手箱のようなものだ。箱の蓋が開けられるのは、年に一度。多くの場合、集落の神社の祭事の折、その年の当家(トウヤ)(※1)によって開けられる。箱の中身は集落によって、実にさまざま。しかし共通項は、箱の中の古民具や古神具を使うことによって、衣食住と芸能に関する古い型が再現されることだ。

しかし、祭りは年に一度だけ。さらに当家の順番は、一生に一度と言ってもいいほど稀な機会だ。実のところ、熟練者などほとんどいない。それらの古物だけを見ても、使用法はよくわからない。なので、箱の中に一緒に入っている古い巻物や申し送り書などの説明書と年輩者の記憶を頼りに、複数の関係者が寄り合って思い出し工夫を凝らす。つまり、祭りの準備には、当家以外の協力者が不可欠なわけだ。

大和高原のなかでも、かなり古い形式が継承されている山添村春日の秋祭、春日若宮祭では、当家以外に、年々(ネンネン)と呼ばれる2人と、若い衆(若いといっても年齢的には中年以上)と呼ばれる4人の計6人が、中心的な手伝い衆(テッタイシュ)となる。この6人は前もって「当寄り合い」という集落の集いで、年齢などを考慮して公平に決められる。そして祭り前日の朝、メインの手伝い衆のほか、親類や隣近所からも助っ人が当家宅に集まって、大わらわの準備が始まる。主な作業は、神前の供物と直会の膳の支度。料理の下ごしらえだけでなく、枝を削って箸をこしらえたり、稲藁を綯って注連飾りをこしらえたりと、細かな手作業も同時に進む。振る舞い酒を頂きながらの賑やかな共同作業がピークに達するのは、祭り前夜の「饗(キョウ)アウチ」だ。饗とは、蒸した米を押し固めてつくる、独特の供物のこと。座敷に広げた筵の上に、蒸したての米を二人がシャモジで広げ、残りの手伝い衆が箕(※2)やウチワで扇いで冷ます。その間、延々と唄が謡われ、手拍子がつく。そして蒸米を直径十数㎝ほどの大きさに固く丸め、祭用の大きな饗桶に入れていく。実際には、入れるというよりも、ポーンと放り込むのだが、その際、饗桶を持つ役の二人はユラユラと桶を揺らすものだから、投げる方はたまらない。

ねじり鉢巻きとたすき姿で臨む、饗アウチ。

ねじり鉢巻きとたすき姿で臨む、饗アウチ。丸めた米を投げるときに米が散るので、ブルーシートは不可欠。唄が苦手なメンバーばかりのときは、古老の唄を録音したテープをかけながら饗をつくることもある。

「饗アウチ」がここまで賑わうのは、お酒が入っているからだけではない。この桶を揺らす所作は、男女の営みを表現しているともいわれ、その際に謡われる「愛宕さん」や「お伊勢参り」などの歌詞にも、男女和合の意味合いが暗に含まれている。アドリブの歌詞が加わることもあり、唄が達者な手伝い衆がいれば、場はさらに盛り上がる。子孫繁栄の願いを、愉しくおおらかに表現してきた先人たち。この賑やかな場のなかで、その心はいとも容易に広がり、時空を超えてつながる。これぞ、共同作業と唄を通して伝えてきた、先人の真骨頂だ。

一方で、祭り当日の神事や直会の細かな順序などについては、記憶するのが難しいためか、詳細を記録した古い巻物が残されている。それを見ながら、非常に古い言い回しの口上(講儀)で座を進めていく。代々申し送りするうちに付け加えたり省略されたりと、相応の変遷を辿ったと推測される独特の口上。それでも「昔はもっとこうだった、ああだった」という古老たちから寄せられるエピソードは絶えず、本来の内容はとても多様であったことが偲ばれる。

当家の仕事は、祭の日程に合わせて供物となる作物の植え付けから始まる。

当家の仕事は、祭の日程に合わせて供物となる作物の植え付けから始まる。不作を見越して、他家にも植え付けをお願いする。亀は米ナスに彫刻刀で甲良を刻み、鶴は茗荷と唐辛子を使う。かつては酒も自家製であったため、ドブロクの保管場所(税務署対策)には随分と苦労したという。

 

この若宮祭は、山添村にある30集落のなかでも、詳細なところまで古式が継承されている珍しいケースだ。多くの集落では、当家の経済的・物理的な負担があまりにも大きいため、簡略化が進んでいる。数十万円の出費となる当家もあるというから、もっともな理由である。しかし、出費の内訳で大きな割合を占めるのは、手伝い衆へのお礼として、打ち上げ時に振る舞われる豪華な会席料理の注文代。饗の膳で神前や直会に出す魚は、頭付きのイワシであるのに対して、打ち上げでは頭付きの大きな鯛やブリが出る。経済的には、祭り本来の古式の膳よりも、近年に付け加えられた外注料理の方が負担が大きいのだ。なので、伝統行事を簡略化するにあたって、古式の食文化や唄まで廃してしまうのは、残念に感じられてならない。当家の負担をできる限り減らしながら、核となる部分をどのように新しく継承していくのか。大きな岐路にさしかかっている今こそ、祭りの構成員ではない私たちにも何らかの役割があるのかもしれない。

地方に残された行事は、有名な寺社仏閣のそれとはまた異なる、無名の祖先たちの生活に根ざした工夫や思いに触れることのできる、貴重な機会だ。「7代」という長い歳月のなかに含まれる、多様性と普遍性。現代の多くの日本人にとっては、触れる機会がほとんどない、失われた感覚だ。一年に一度、玉手箱を開けて思い出し、次代に伝えるという行為は、自分自身も延々と連なる生命潮流のうちの1代である、という当たり前の感覚を再認識させてくれる。今、私たちは、千年に一度、いや、もしかしたら万年に一度の玉手箱を開けるべきときにさしかかっているのかもしれない。とすれば、温(タズ)ねるべき故(モト)は、より広大なところにあるはずだ。玉手箱を開けたとき、どこまで深く思い出すことができるだろう。どこか遠くの博物館や教室ではなく、まずは足下の大地の深層につながりたい。新しきを知るために。

神前に供える饗の膳。

神前に供える饗の膳。代々伝わる古い盆の上に、イワシ、芋煮、ナスと牛蒡と里芋の煮物、大根と人参の膾、輪にした藁を飾った饗などを供える。クロモジの枝を削ってつくった箸のそばにあるヘラも箸と呼び、檜を薄く切ってつくる。

ハサミザカナ

「ハサミザカナ」。昔は、手間のかかる贅沢な酒の肴だった豆腐とコンニャクを、三角形に切って重箱に詰める。                                  

 

[参考文献] 波多野村史(1962年5月発行;同村を含めた計3村の合併で1956年、山添村が誕生)

※1
祭祀を執り行うにあたっての準備などについて、中心的な役割を果たす人物や家。大和高原では、集落内で年ごとに輪番制で担当する。

※2
中に穀物を入れてあおり、殻やごみをふるい分ける農具。.古くから箕には霊的な力が宿るとされ、今でも各地の伝統行事で使用されることがある。

写真撮影:山添村春日のSさん

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

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おやつは、みんなで食べる宝石! https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/03/%e3%81%8a%e3%82%84%e3%81%a4%e3%81%af%e3%80%81%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%a7%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%82%8b%e5%ae%9d%e7%9f%b3%ef%bc%81/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/03/%e3%81%8a%e3%82%84%e3%81%a4%e3%81%af%e3%80%81%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%a7%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%82%8b%e5%ae%9d%e7%9f%b3%ef%bc%81/#respond Fri, 16 Mar 2012 09:31:19 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=89 昔は赤砂糖を使用したので、焼き上がりは茶色っぽかった。

昔は赤砂糖を使用したので、焼き上がりは茶色っぽかった。

大和では昔、おやつのことを、ホウセキ、ホセキと呼んでいた。昭和30年代頃までのホウセキは、柿やイチジク、グミ、煎った栗やそら豆、さつま芋、かき餅やキリコ(あられ)など、身近な果実や自家製の保存食がメイン。甘いものが貴重だった当時は、大人も子どももホウセキのひとときを心待ちにしていたという。

ところで、季節や天候によって、果実や保存食などのホウセキが手に入りにくい日や、ちょっと気が向いたときには、自家栽培の小麦粉を使ったホウセキの出番だ。砂糖を入れた小麦粉を水で溶き、鉄鍋でこんがりと焼く。大和高原では「すり焼き」のほか、「シリシリ」(奈良市都祁:旧・都祁村)、奈良盆地では「シキシキ」とも呼ばれた。とても素朴なおやつだが、ぶ厚く焼くと腹持ちがいい。遠い距離を歩いて学校から帰った子どもたち、農作業で力仕事をこなす大人たち。お腹を空かせた老若男女に歓迎されたホウセキだった。

ホウロクは、今でいうフライパン。

ホウロクは、今でいうフライパン。油臭が移らないように、から煎り専用のホウロクと分けて使う家もあった。

「シリシリやったら、80過ぎのうちの母親が知ってるから、『焼いてほしい』って、頼んでみ。前もってお願いしとくと緊張しやるから、うちに来てから、その場で頼んでみ」。

大和高原、旧・都祁村のあれこれをいつも教えてくださる瓦職人の福井久朗さん。冬のある日、福井さんの言葉に甘えて、突然、福井家を訪れた。福井きみゑさん(84歳)は、庭先で障子紙の張り替えに精を出していた最中だったが、手を止めて「まあ、上がってや」と迎え入れてくださった。「シリシリが、どんなおやつだったか、実際につくってるところからみてみたいんです」という不躾なお願いに、「久々やから、うまいことできるかなあ」と言いつつも、にこやかに台所に招いてくださる。

ボールに小麦粉と砂糖をザックリ入れ、お水をチョイと入れる。箸でぐいぐい手早く練り混ぜて、生地の準備完了。ホウロク(※1)という浅底の鉄鍋に油をしき、生地をポッテリと流し込んで蓋をする。「子どもの頃、雨の日とかに、おじいさんが焼いてくれたんよ。雨以外は農作業で忙しかったからね」と、目を細める。昔話に花が咲き始めた途端、蓋を開けてひっくり返し、裏も焼いて出来上がり。

 

みんなで賑やかに

リクエストしてから実際に食べさせていただくまで、まさに、あっという間の出来事。外で障子を水洗いされていた福井さんご夫婦も加わり、「いただきます!」とみんなで一休み。ほくほく、もっちり。切り分けてくださった熱々のシリシリの、なんと美味しいこと!水で溶いた小麦粉のシンプルなおやつが、こんなにも嬉しく感じられるのは何故だろう。忙しく仕事をしていた合間に手を止めてまでつくってくださったこと、みんなで賑やかに食べたこと、きみゑさんがにこにこ笑顔で昔のことを教えてくださったこと。確かに、そのすべてがあったから、美味しかったのだ。

至極シンプルな材料。思い立ったらすぐにできる。そんなすり焼きだが、実は、昔のものを忠実に再現するのは、とてつもなく難しく、ほぼ不可能に近いと言っても過言ではない。食料をほぼ自給自足していた当時、麦は米の裏作、または畑作として昔から重要な作物だった。初夏に刈り取った麦は、村の粉挽き屋さんにもっていって粉にしてもらう。地域の水車でじっくり挽いた粉はやや荒めで、皮が混じることもあったが、しっかりと小麦の味がした。

もちろん、油も自給。各家で菜種を育て、種を採ったら油屋さんや農協に出し、油と交換してもらうのだ。しかも当時、油と言えば、食用ではなく照明用。小皿に油を注いで灯芯に灯す灯明は、数箇所しか電灯がなかった当時の一般民家には、不可欠な明かりだった。

揚げ物など、油を使う料理は、日本でも古代から調理されていたようだが、特権階級のみ可能であった贅沢なメニュー。クルミ油を塗った平銅鍋で水溶き小麦粉を焼いた「麩の焼」が、茶菓子として千利休に好まれたという16世紀の記録もあるが、一般庶民にまで食用油が浸透していったのは江戸時代中期頃。さらに現在のように惜しみなく使うようになったのは高度経済成長期に入ってからで、その頃になると油の製造方法もまったく異なってくる。今や、小麦の約90%、油用菜種の99.5%以上を輸入に依存している日本。本来のすり焼きを思い出すということは、日本の原風景を思い出すことでもあったのだ。

菜の花畑が広がる春、穂がそよぐ麦秋の初夏。さらに多忙な田植え、茶刈り、養蚕の作業に追われながら、蛍が乱舞し始める虫送り(※2)の季節。絶え間なく続く大変な農作業を乗り切って、ようよう手に入る小麦と菜種。思い出を語ってくださるきみゑさんの笑顔の向こうには、菜の花や麦穂がそよぐ美しい風景があったのだ。手を尽くした貴重な小麦粉と油を使った、ホウセキ。子どもたちの目には、それはまさに宝石のように見えていたに違いない。すり焼きをほお張る子どもたちの瞳の輝きが目に浮かぶ。その輝きこそが、この国の宝物であったことを、忘れてはいけない。

※1 ホウロク
焙烙。16世紀に登場し、江戸時代から昭和時代にかけて、フライパンが普及するまで広く使われた浅底の調理器具。土製の焼き物もあるが、鋳物の鉄鍋が主流。主に豆や茶、栗などを炒るために、囲炉裏、かまど、七輪、火鉢などに載せて使用した。

※2 虫送り
日本各地で行われていた伝統行事で、作物の害虫駆逐と虫供養、豊作などを祈願する。主に初夏、松明を灯して行列で村境にいき、村の外に虫を送り出す儀礼を行う。県下では今も、毎年6月16日に天理市山田地区などで行われている。

 

すり焼き(シリシリ)の作り方

①小麦粉に好みの分量の砂糖と、塩少々を入れる。よくかき混ぜながら水を少しずつ加え、好みの固さの生地を作る。厚く焼くときは、固めに。
②フライパンに油を熱して、生地を丸く落とし、蓋をして焼く。表面が乾いてきたら、裏表を返し、両面がこんがり焼ければ出来上がり。

生地の緩さは家によってさまざま。

生地の緩さは家によってさまざま。固めの生地で厚く焼くと腹持ちが良い。緩い生地で小さく焼いて、切らずに端からクルクルと巻いて食べる家も。

放射線状にきりわけていただく

放射線状にきりわけていただく

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

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心も体も温まる母の味、大和の茶粥 https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/02/%e5%bf%83%e3%82%82%e4%bd%93%e3%82%82%e6%b8%a9%e3%81%be%e3%82%8b%e6%af%8d%e3%81%ae%e5%91%b3%e3%80%81%e5%a4%a7%e5%92%8c%e3%81%ae%e8%8c%b6%e7%b2%a5/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2012/02/%e5%bf%83%e3%82%82%e4%bd%93%e3%82%82%e6%b8%a9%e3%81%be%e3%82%8b%e6%af%8d%e3%81%ae%e5%91%b3%e3%80%81%e5%a4%a7%e5%92%8c%e3%81%ae%e8%8c%b6%e7%b2%a5/#respond Sat, 04 Feb 2012 10:54:24 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=39 より古い姿を残す「食べる」茶

大和の人にとって、お茶は「飲むもの」というだけではなく、「食べるもの」でもあった。ほんの数十年前まであった、大和の日常生活の原点だった茶粥。奈良とその近隣地域で食されてきた茶粥は、伝統食としてあまりにも有名だ。
中国の雲南省のある地域やミャンマーなどでも、茶葉をスープにしたり、茶粥にするケースが散見される。この地域で作られる発酵茶は、四国の阿波番茶や碁石とほとんど同じもの。茶の原産地と言われる雲南省エリアと日本とのつながりから見えるのは、より原初的な利用法、「食べる」茶だ。その茶文化は日本各地の山間部に定着し、焼畑農業による輪作の一つとして茶が植えられたという。後に放置され、木々の下で細々と野性化した茶をヤマチャと呼ぶ。紀伊半島のヤマチャの分布は、かつて焼畑農業が行われていた山間部とほぼ一致する。このヤマチャを自家製茶したものこそ、茶粥で使われる番茶のルーツともいわれている。
大和高原や吉野地方は、古くから近隣平野部と密接な交流を続けてきた。物資だけでなく、稲作や製茶などにかかわる労働力の交換もあった。そのなかで茶粥は平野部にも伝播したのかもしれない。しかし、何故ここまで茶粥は広く大和に根付いたのだろう。茶粥文化を育てたのは、人々の生活そのものに違いない。茶粥の湯気の向こうに見え隠れするのは、つつましくも逞しい、主婦の姿だ。奈良県山添村のご高齢の女性たちに、当時のお話を伺った。

 

一日の始まりは茶粥から

朝、暗いうちに起き、まずはオクドさんの火をおこす。松葉や松枝につけた火を、割木へとうつす。まずは、おかいさんの茶を炊くクドさん。で、ご飯を炊くクドさん、大根や芋を炊く小さなクドさんにも。同時に3つの釜の面倒を見なくてはいけない。大和茶の産地、奈良県山添村のかつての日常。その一日の始まりが茶粥であったことの必然を知りたくて、実際にみなさんに羽釜で茶粥を作っていただくことにした。

「釜はピカピカにしてたよ。すぐ黒くなるから毎晩、磨いてた。朝、汁が吹きこぼれても、姑さんが起きはる前にふき取ったんよ。釜のお陰で食べれるんやもん。尊敬すべき神様みたいな存在」(新瀬八千代さん70歳)。

「すんなり炊かへんことも多かったよ。火がつかへん思たら、今度はブクブク吹き出したりね。泣く子を背負いながら、こっちも泣きそうになって朝の準備してたわ」(中辻サトエさん 91歳)。

中辻家のヒロシキには囲炉裏の代わりに火鉢が

中辻家のヒロシキ(玄関土間に面した板間)には囲炉裏の代わりに火鉢が。明治生まれのお祖父さんがされていたように、今も寒い日には、サトエさんが炭火を起こす。

茶畑や米以外にも、多種類の豆、野菜、芋を栽培する農家にとって、四季折々の農作業は絶えることがない。冬は、一年分の薪や柴をこしらえる「山行き」の仕事が待っている。1日三食では重労働が続かないため、遠くの田畑に行くときは、午前中の間食(ルビ:けんずい)の茶粥と、昼食の麦飯の弁当を持参する。

「アルミのハンゴウやヤカンに朝の残りの粥を入れて、オヒツに麦飯入れて。昔は田畑のそばに野小屋があって、お椀やらお箸を置いてたん。そばに足を洗う池もあってね、雑巾も置いてて。楽しかったわあ。野小屋の思い出ばっかり」(田和敏子さん 83歳)。

 

集まった女性たちの表情が次第にほころぶ。「箸がない思たら、木の枝、折って箸にしたりなあ」。辛いだけではない、農的生活。大地に足をつけて生きてきた人々の言葉は、リアルで温かいイメージを広げてくれる。

 

おいしい茶粥の秘訣

爽やかな茶の香りが広がる。

爽やかな茶の香りが広がる。キビキビと手際いいみなさんの動きに脱帽。

緑茶は煮ると苦いので、カフェインの少ない番茶を使う。家によって異なるが、茶工場で蒸した茶を持ち帰り、家で天日干しにした茶を使うこともあった。まろやかな太陽の香りがするのだ。事前にホウラクで煎ると、ますます香ばしさが増す。茶袋を入れた水が沸騰し始めた途端、あたりに香ばしい湯気が広がった。一同、歓声を上げる。炊飯の蒸気はムワッと立ちこめる感がする。ツワリのある妊婦にはこれがたまらなく辛い。が、茶の湯気のなんと爽やかなこと。すかさず、洗い米を釜に投入し、隙間を少し開けて蓋をする。別鍋で小豆粥も作ってくださることになった。昨晩、やや固めに炊いておいた小豆を、途中で加える。沸騰して十分な濃さの茶汁になったら茶袋を出すが、茶の香りはまだまだ続く。あとは炊き加減を味見し、米が柔らかくなりすぎないうちに火を消して塩を入れ、蓋をして蒸らす。

サツマイモ、ジャガイモ、カボチャ、小豆、エンドウ、ササゲ、ウズラ豆、トウロク豆、はったい粉、小麦粉の団子、かき餅。季節によって、さまざまな実(具)を入れることで、茶粥はバリエーションがぐんと広がる。吉野地方では雑穀やトチの実、カシの実も入れることがあったという。季節感たっぷりの具は、大きな楽しみ。米の消費を抑えるためだけに具を入れていたわけではなかったのだ。

 

「お釜は神様みたいに有り難い存在」

大きな釜をひょいと手にとり、てきぱきと洗う。「お釜は神様みたいに有り難い存在」。

晒し木綿でつくった手縫いの茶袋(チャブクロ、チャンブクロ)

晒し木綿でつくった手縫いの茶袋(チャブクロ、チャンブクロ)。長年使うと茶色に染まってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

粥はエネルギー源としては不十分なため、間食や昼の麦飯が必要だ。毎朝、ご飯を炊きながら、同時にわざわざ茶粥も欠かさなかった理由。それは、一日の始まりにふさわしい爽やかな香りに加え、季節の食材を気軽に炊き込める“懐の深さ”にあったのかもしれない。さらに温度調節機能とも言うべき利点もあった。冷めても火にかければ、すぐ温まる。冷ご飯にかければ、ご飯は温もるし、熱すぎる粥の熱もとれる。夏には井戸の水で冷やして、ひんやり喉越し良く。あったかい小麦団子が食べたくなったら、粥と一緒に一煮立ち。茶粥は、いわば万能スープ。日々、飽きることのない味わいを生み出す、大地の食べ物だったのだ。

団子

団子は、耳たぶほどの柔らかさに水で錬った小麦粉を、親指で半月型に押し広げるようにして粥に入れる。団子だけ出して醤油をつけたり、お椀の中の団子に味噌をつけたり、家によって食べ方はさまざま。トロリとしておいしい。

熱々の茶粥を冷やご飯にかければ、食べやすい温かさになる。

熱々の茶粥を冷やご飯にかければ、食べやすい温かさになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、温かな粥ができあがった。仏壇にお供えしてから、いただきます! 茶特有の滋味が、違和感なく米になじんでいる。茶は粘りを抑える効果もあり、さらりとした食感が小気味良く、箸が止まらない。心身が温まり、リフレッシュしていく。温かい茶粥を、体が喜んでいるのが感じられる。

ふと気づけば、茶粥を作ってくださった女性陣が、微笑みながらこちらを見守ってくださっているではないか。その慈しむようなやさしい眼差しに、思わず箸が止まる。家族を思い、田畑や山を思い、火と水で日々の糧を設える。自然とつながりながら、精一杯に生きてこられた方々の知恵と心。茶粥がこんなにも心を満たしてくれるのには、深い理由があったのだ。微笑む村の方々と、家の外に広がる自然に、手を合わせ頭を下げた。ごちそうさまでした――。

 

茶粥のつくり方
米の5~10倍あまりの水に、番茶かほうじ茶を詰めた茶袋を入れ、沸騰させる。沸騰したら洗い米を入れ、吹きこぼれない程度に隙間を開けて蓋を。吹きこぼれそうになったら、蓋を開けて軽く混ぜる。お好みの濃さの茶湯になったら、茶袋を取り出す。米が柔らかくなりすぎないうちに火を止め、蓋を閉めて蒸らす。茶粥は家ごとによって、微妙に作り方が異なる。米や茶の分量、茶袋を出し入れしたり、具を入れたり、火を止めるタイミングも、家によってさまざま。沸騰してから約30分ほどで出来上がるが、これも好みで調節するといい。

 
 
参考文献
『聞き書 奈良の食事』農山漁村文化協会
松下智『幻のヤマチャ紀行~日本茶のルーツを探る』淡交社
谷阪智佳子『自家用茶の民族』大河書房

 
 

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

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寒い冬こそ、亀が大活躍 https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2011/12/%e5%af%92%e3%81%84%e5%86%ac%e3%81%93%e3%81%9d%e3%80%81%e4%ba%80%e3%81%8c%e5%a4%a7%e6%b4%bb%e8%ba%8d/ https://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/2011/12/%e5%af%92%e3%81%84%e5%86%ac%e3%81%93%e3%81%9d%e3%80%81%e4%ba%80%e3%81%8c%e5%a4%a7%e6%b4%bb%e8%ba%8d/#respond Tue, 27 Dec 2011 10:13:29 +0000 http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/senjin/?p=5 半世紀ほど昔の話。寒い冬になると、山里のあちらこちらに亀が出没していたという。亀の甲羅のような防寒着「おいね」を背負った里人たちだ。

やまとのおいね

左右上部にひもをつけ、下部に輪をつけてひもを通し、胸の中央でで交差させて結ぶ。写真は、明治40年生まれの女性が銘仙の布で縫った「おいね」。ちょっとした買い物の時においねた、お出かけ用。  (山添村助命 奥西家)

いつごろから使われるようになったか不明だが、大和高原近隣の方言「おいねる(背負う)」が、その語源になったといわれる。子守用の「ねんねこ」同様、背中に着用するため、まさに亀の甲羅のようなかっこう。学校の学芸会の「浦島太郎」で亀を演じるときには欠かせない衣装だったという。中に綿が詰められているが、上等な「おいね」は真綿を入れることもあり、高価な銘仙の生地で縫ったお出かけ用の「おいね」もあった。多くの場合、真綿は、自家生産した繭からとったものだ。

季節でいうと10月から4月ごろまで、主に女性が使ったが、男性が着けることもあった。最大の特徴は袖がないため動きやすく、屋内外の仕事の際に便利な点。「背中を温めると風邪を引きにくい」という古くからの智恵をコンパクトに体現しているわけだ。しかも衣類のうえからヒモで結ぶので「茶刈りの仕事中、暑なったら外して、茶の木にヒョイとおいとける」(山添村北野の田和庸保さん:79歳)という手軽さからも重宝された。庸保さんの従姉の田和寿子さん(山添村北野:83歳)も、懐かしそうに語ってくださる。

「ワシらの母親の代までは、ようおいねてたよ。若い子(同世代)は明るい色や柄の布で縫ったから、後ろから『おいね』を見れば、誰かわかったもんや。もちろん全部、手縫いやよ。縫い方は、『見覚え』。夜なべや雨の日とかに、母親が縫ってるのを、小さいときから見てたから、自然と覚えるんよ。昔はね、山仕事(炭焼きの手伝いなど)とか、栗の実拾いとか、家族や近所の仲間と一緒に行っとったんよ。それで野小屋とかで休憩するやろ。そんときに、みんなで「おいね」を見せあったりすんねん。一人一人、形が違うんよ。大きさや角の形もそれぞれで、丸まってたり、小さかったり、大きかったり。それぞれ工夫してておもろいんやけど、そういうのをヒントに、『次、縫うときは、こうしてみよかな』って、縫うんよ」

やまとのおいね

この冬、著者が所属する「大和高原文化の会」、畿央大学(奈良県広陵町)、福祉法人「青葉仁会」で共同開発した現代版「やまとのおいね」。L3000円、M2800円、子ども用2500円。やわらかいフリース生地に、軽くて保温性の高い化繊綿が詰めてあり、想像以上に温かい。                   問い合わせ0743-87-0001      (大和高原文化の会)

かつて大和高原の冬は、天然の凍り豆腐の産地でもあったほどに寒かった。そんな季節にも仕事に精を出していた、一点ものの亀の甲を背負った人々。女性から女性へと手作りで引き継がれてきたその背景には、共同作業という絆があった。仕事が、「おいね」のお披露目の場であり、創作のヒントを見出す場にもなっていたのだ。

それにしても、今の時代からは、さぞかし厳しく辛かったであろうと想像される冬の山行き(山仕事)。しかし意外なことに、「みんなで仕事するから辛くない。楽しい思い出が多いよ」との応え。冬の亀の甲は、助け合い繋がりあって生きてきた証でもあったのだ。当時の「おいね」を背中に着けてみる。「みんなつながっているんや」という声が聞こえたような気がした。そして、じんわり、心が温まった。

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

 

 

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