伝え合うことを、あきらめない。

この8月、富山大学人文学部の中井精一先生と研究室の学生たちが、方言調査のために大和高原を訪れてくださった。私が所属する「大和高原文化の会(文化の会)」が受け入れコーディネーターとなり、奈良市東部山間、山添村、桜井市東部山間の数カ所の集落へと、学生さんたちをご案内した。学生たちによる、古老たちへの聞き取り。中井先生のご指導の賜物だろうか、学生たちはみな謙虚で礼儀正しく、とても丁寧に質問を進めている。大和高原の方言は、奈良盆地のそれとは、微妙に異なる。隣り合った集落なので言葉が似ていると思いきや、昔はかなり異なる集落もあったという。聞けば、地理的に鬼門の方位にある集落とは婚姻関係をあまり結ばなかったため、言葉も交じりにくかったそうだ。それにしても、オジイ、オバアの言葉は、ほっこりと心がなごみ、じんわりと余韻が残る。「『ものをとってください』って、どう言いますか」。90歳代の女性が、やさしく応える。「ちょっとすまんな、それ、とってんけぇ」。

「文化の会」の会員は、私を除いて、全員が60~80歳代の古老たち。方言調査に集まってくださった集落の古老たちは、80~90歳代。朴訥と話す自給自足時代の古老たちと、驚きまじりに頷く若者の姿は、あたかも祖父・祖母と、孫。あるいは曾孫だろうか。古老の話に耳を傾ける彼らの様子を眺めていると、胸がいっぱいになる。なにかとても大切なものが、若者たちに伝わっていく。彼らの謙虚さは、教員による的確な指導だけが理由ではないことが、すぐにわかった。教育機関では決して教えてもらえない、古老の話。その感動が、自然と所作に現れているのではないだろうか。調査と称して持論を押しつけ、論文に都合のいい素材だけを持ち帰る研究者も少なくない昨今、ライフヒストリーを含めて、あるがままの話を拝聴し、素直に言葉を返すという素朴な対話が、教育、地域づくりなど、すべての人間関係に通じる原点であるということが、痛感される。方言は、このような人と人の近しい関係のなかに、伝えられてきたのだ。

数百年、いや数千年もの間、土地の言葉で継承し、教えられてきた智恵。そこには、多様な人間同士のたえざる葛藤もあっただろう。大和高原に暮らすなかで、特に柳生地区で各種会議が長引く傾向にあるのが、当初は不思議だったものだ。役場が身近にない(昭和30年代に奈良市に合併されたものの、市役所まで車で40分かかる)ことで、昔ながらの風習がかえって残されたのだろう。普段は大阪まで通勤し、地元以外では方言など使わなさそうな人までもが、とにかく何でもかんでも、方言まるだしで、よくしゃべる。無口な人もけっこう多いが、そういう人たちも要所要所で端的な意見を述べ、それが全体の流れを意外なまでに変えたりもする。さんざん話が脱線して、あらゆる意見が出尽くして、それで最終的にやっと結論が決まったときには、なにかとても晴れ晴れしいというか、爽やかな気分が広がる。反対意見を出してご機嫌ななめだった人たちも、長々と話し合っているうちにほだされて、納得し始める。お役所でありがちな型どおりの会議なんてものはなく、嵐を起こして船をひっくり返し、誰もが予期せぬ意外なところに漂着したりするから、けっこうおもしろい。

大和高原で時として体験するようになった「長丁場の話し合い」。その雰囲気のルーツとでも言うべき「寄り合い」の原風景が、民俗学者の宮本常一の著書『忘れられた日本人』にみられる。昭和25年、民俗調査に出向いた対馬での寄り合いの様子を、宮本は詳細に記録している。寄り合いで何かを決めるとき、全員が納得のいくまで、何日もかけて話し合っていたのだ。当時、そのような村は西日本では少なくなかった。宮本が対馬の伊奈に滞在した時、村では、話し合いはすでに2日目に入っていた。「村の古文書を借用したい」という宮本の願いが新たに議題に加わり、関連する話に花が咲く。あれやこれやと借用をめぐる体験談や見聞が語られ、そして、また一旦、別な議題に流れていったりする。なかなか決まらないので、とうとう宮本自身が寄り合いに出向いて、「島でクジラ漁をしていた頃の貴重な古文書である」と伝えると、かつてのクジラ漁についての思い出話が続く。そうやって一見、のんびりしているが、次第に話を展開させながら、1日がかりで、ようやく古文書を貸し出すことに決まったという。そこで宮本は古文書を受け取り、場を後にしたが、ほかの協議はまだまだ続いているようだった・・・当時の古老曰く、「子どもの頃は、話し合いの途中、空腹になったら食べに帰るということをせず、家人が弁当を届けに行った」。夜はその場で寝る者もいれば、徹夜で話し明かす者もいる。しかし、どんなに難しい話でも、たいてい3日で、「みんなが納得のいく」結論が出たという。

かつて先人たちは、共に生きる仲間との対話をあきらめなかった。思いを分かち合い、「寝食を共にしながら」語り合った。学び、気づき、癒し、感情と体験の分かち合い・・・そこは、とにかくいろんなことが湧き起こる時空だったに違いない。メディアではなく、本当の声に価値があった。その多様なざわめきから生まれ、醸されてきた方言。その響きの向こうには、言葉を超える時空が広がっている。

私は、大和高原の方言をうまく話すことができない。でも、できることはある。身近な人の思いにただ耳を傾け、自分の本当の思いを伝えること。上手に言えなくてもいい、遠回りしてもいい。あきらめさえしなければ、きっとどこかに漂着できるはずだ。

一晩語り明かす。これは誰しも学生時代には体験してきたことではないだろうか。しかし、年齢を重ねることで、私たちは本当の思いにフタをしてしまう。本当の思いを伝えてしまうと、相手を傷つけてしまうのではないか。自分が傷ついてしまうのではないか、と。一番大切なことは、個人のささやかな思いの内にあり、それが時として全体を救うことにつながることもあることを、先人たちは知っていたのだ。
いい年した大人たちが、恥も外聞もなく、本気で長時間、語り合う。実のところ、これだけでもう、もっとも大切な目的を果たしていることになるのだろう。それは、困難を乗り越え、英断を実行することのできる、信頼関係。つまり寄り合いとは、人と人の本当の絆を生み出す共同作業なのだ。

振り返って今、本当の思いを分かち合うこともなく、表面的な「絆」を掲げる私たちの国の政府。本当の絆とは何なのか。私たちはその基本中の基本を、忘れてはいないだろうか。隠さない。決めつけない。あきらめない。あるがままで、いい。胸にため込みすぎてしまった思いを解き放ち、長らく中断してきた話し合いを、再開すべきときがきている。大切なことを、話し合おう。未来のために。

8月の早朝。山添村、神野山の中腹から望む朝霧。当地では、かつて、寺社で共に夜を過ごし朝を迎える「おこもり」がよく行われた。夜は「ココだけの話」も多く語り合われたという。

8月の早朝。山添村、神野山の中腹から望む朝霧。当地では、かつて、寺社で共に夜を過ごし朝を迎える「おこもり」がよく行われた。夜は「ココだけの話」も多く語り合われたという。

 

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。

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