人の暮らしと心を映す、里山の景色

「明快なる風光が、どれほど島の人の心をやわらげ明るくしたか分からない。古くは春の光なごやかな日など、人びとは多く浜に出て、そこに筵をしいて藁仕事や針仕事をしつつ談笑していた。静かな夕暮には山から仕事を終えてかえった人たちが、浜や石垣の上に集まって沖の方を見つつ少時を雑談した」

 

民俗学者の宮本常一が思い起こす、郷里である山口県大島のうららかな景色。ただ自然だけではない、人と自然が交わるなかで醸し出される、和やかさと温もりが彷彿される文章だ。

私が暮らすここ大和高原の景色も、毎日眺めていて飽きることがない。景色を愛でるには、車よりも徒歩や自転車がいい。以前住んでいた柳生地区は平地が多く、自転車を愛用していた。地元での用事を終えた帰途、自転車に乗る私に会釈を返してくれる、里の方々。美しい里の景色を見渡しながら、ゆっくりとペダルをこいでいると、理由もなく上機嫌になってくる。心地よい風に吹かれながら、鼻歌の一つでも歌いたくなるのだ。

当地では、玄関先に椅子が置かれている民家がままある。夕暮れ前、野良仕事を終え、何をするでもなくその椅子に腰掛けて一休みし、里を眺める古老。はたまた、田んぼの畦に腰掛けて雑談するほっかむりのオバアたち。景色と一体化した古老たちの存在が、より美しさと温もりを広げてくれる。

日々の煩事を包み込み、じんわりと癒してくれる里の景色。自然そのものだけでなく、適度に人の手が入った温もりが加わるからこその、美しさ。守り、守られてきた、その名もなき先人たちの思いも共に広がっているからこそ、美しい。それは得も言われぬ幸福感だ。

もし読者が田舎に旅して、夕暮れ時、田畑に立つ古老を見かけることがあったら、声をかけさせてもらうといい。きっと、何気ないやりとりに、胸が満たされるはずだ。その温もりこそが日本の原風景だ。その中に是非、入ってほしいと思う。

 

日本の原風景の美しさは、本来、生活と仕事から切り離せないものだ。風土に合った生活と生産活動が、より地域色ある風土を生み出す。大和高原は、吉野地方ほど険しい山間部ではないために、茶の栽培など、なだらかな斜面を利用した地場産業が発達した。そして山行き(山仕事)は主に、製材のための林業ではなく、炭や燃料にするための薪や柴を確保するために行われた。

「昔は、どの山も柴山(薪や柴をとる雑木林)で、今ほどうっそうとしていなかった。今は木を切らへんから、キノコが上がって(生えて)こえへん」と、古老たちは口をそろえて言う。雑木は切り出しても、30年経てば、きれいに再生する。30年という単位は、次代に資源を残すのにちょうどいいタームなのだ。

凍らせたり乾燥させていない豆腐を、「白豆腐」とよんだ。

凍らせたり乾燥させていない豆腐を、「白豆腐」とよんだ。3種類の敷き布を型に入れて、くだいた大豆を中に入れ、重石を乗せて絞って白豆腐をつくる。

そして凍豆腐(高野豆腐)の製造も、当地の自然を活かした冬場の重要な産業だった。江戸末期に高野山から技術を習得した里人の起業を発端に、明治期から昭和30年代まで、一時は隆盛をきわめた凍豆腐づくり。製造過程で清水を大量に使うため、豆腐小屋は、渓流沿いに建てられた。大豆を炊く燃料には薪、大豆を挽く動力源には水車を使用。そして冬期の冷え込みを利用して夜、野外で凍らせた。凍ったら母屋(もや)の室に数日間ならべ、熱湯でもどす。絞り箱で水を除いた豆腐を、細竹で編んだス箱の上で乾かす。ホイロの熱源は薪で、煙道で熱を引き入れる地釜式だった。後に大豆を挽くのに石油発動機を使うようになったが、明治期までは、生産に使うエネルギーをすべて地域の自然から得ていたのだ。

多種多様な職人がかかわる凍豆腐づくり。それに伴って、さらに多くの仕事が活性化した。豆腐型や刃物などの道具をつくる人、薪や柴をつくる人、それを牛馬で運ぶ人、オカラを餌に牛を飼う人、製品を入れる木箱をつくる人、木箱に貼るラベルを印刷する人…。最盛期の大正時代から昭和20年代にかけては、奈良盆地に向けて凍豆腐を運搬するための索道(荷物専用のロープウェイ)が開通し、大和高原の小倉、針、山田の各駅には原料と製品が山のように集められた。主な職工たちは、灘の酒づくりにおける杜氏と同じく、兵庫県但馬地方から出稼ぎで滞在したため、冬場の賑わいは格別であったという。仕事とエネルギーが循環することで、里全体が活性化していたのだ。

白豆腐を中に入れて、押し切りする箱。

白豆腐は、普通の豆腐よりニガリを多めに入れているので固い。白豆腐を中に入れて、押し切りする箱。裁断した白豆腐を、板にならべて凍らせる。

大量の大豆を出し入れするときに使う、竹製のロウト。

大量の大豆を出し入れするときに使う、竹製のロウト。竹細工を農閑期の仕事にする家も少なくなかった。これに紙を貼って柿渋を塗ったものは、米を俵に詰めるときに使った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時代の趨勢に押されて衰退した凍豆腐づくりであるが、山間資源を地域色豊かに活用した一連の営みのおかげで、今も大和高原には雑木林が点々と残り、景色に明るさを加えてくれている。景色は、先人たちの仕事の集積でもあるのだ。今の私たちに残された仕事は、何らかのかたちで、地域の資源を活用することなのかもしれない。

例えば小型水力発電は、日本の大部分を占める山間地にふさわしい発電方法だ。現在、水資源の豊富な山間地でも、電力を遠隔地から引いているところが少なくない。小型水力発電を導入して発電会社を立ち上げることで、地域ごとに仕事が生まれる。それは単なる電力ではなく、地域を守る力でもある。

「国民の生活を守る」という詭弁によって、今、何の反省もなく大飯原子力発電所が再稼働されようとしている。地域の自然から隔絶された巨大なハコモノが林立する、寂しい風景。その景色では、目には見えない何かが失われている。「生活を守る」ということの奥深さを、私たちは絶対に忘れてはならない。それは即ち、地域を守り、景色を守り、人の心の温もりをも守ることであった。自然なくして人は生きることはできない。風土に根ざす営みを守る政策へと大転換することでしか、もう大切なものを守ることはできないのだ。

今、広がっているこの美しい景色が、7代先にも人々の心を癒してくれるものであってくれるだろうか。その岐路に至る時間は、もう長くはない。

 

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。