玉手箱を開けるとき

「7代先につなぐ」。言葉にするのは実に簡単だが、現代の日常生活のなかでは、具体的に「7代」の歳月を感じることができる機会は、とても少ない。7代前の記録が残っている家はきわめて稀であるし、たとえ古文書があったとしても、当時の日常を体感することは難しい。例えば、博物館で展示されている古民具を見たからといって、先人とのつながりを体感できるものではない。むしろ、ガラスケース越しという非日常的な見学という行為が、現在との隔たりや断絶を強調してしまうことが少なくないように思う。

もちろん、急激な変化にさらされている現代社会でなくとも、昔から「7代」という年月はきわめて長いものであることに変わりはない。「7代」をつなぐために、先人が考え出したアイデア。それは、「みんなで協力して思い出す」仕組みづくりだったのではないだろうか。その集大成が、「祭り」なのかもしれない。

祭りで特筆すべきことは、神前への供物や直会での膳が、非常に古い食文化の再現の場になっていること、そして、家元制度などによる画一化や特権化が進む以前の、庶民による庶民のための芸能の有り様を示唆していることである。

祭前日に、当日の直会の場に置く鶴と亀を制作する。

祭前日に、当日の直会の場に置く鶴と亀を制作する。直会は正式な謡酒盛で、進行順序は厳密に定められている。正座に置かれた雌雄の鶴と亀は、一同に回覧する段になると、雌雄を左右に分けて上座から下座にまわされる。その際、各々、膳ごと持って眺めては「今年のは上出来や」などと感想を述べながら、隣へまわしていく。

大和高原では、多くの集落が、数百年ほどの歴史ある古物を共同管理している。それらはガラスケースに常設されることなく、普段は古めかしい木箱に収められていることが多い。なので、いつでも見ることができるものではない。木箱はいわば、何代にもわたって手渡されてきた秘密の玉手箱のようなものだ。箱の蓋が開けられるのは、年に一度。多くの場合、集落の神社の祭事の折、その年の当家(トウヤ)(※1)によって開けられる。箱の中身は集落によって、実にさまざま。しかし共通項は、箱の中の古民具や古神具を使うことによって、衣食住と芸能に関する古い型が再現されることだ。

しかし、祭りは年に一度だけ。さらに当家の順番は、一生に一度と言ってもいいほど稀な機会だ。実のところ、熟練者などほとんどいない。それらの古物だけを見ても、使用法はよくわからない。なので、箱の中に一緒に入っている古い巻物や申し送り書などの説明書と年輩者の記憶を頼りに、複数の関係者が寄り合って思い出し工夫を凝らす。つまり、祭りの準備には、当家以外の協力者が不可欠なわけだ。

大和高原のなかでも、かなり古い形式が継承されている山添村春日の秋祭、春日若宮祭では、当家以外に、年々(ネンネン)と呼ばれる2人と、若い衆(若いといっても年齢的には中年以上)と呼ばれる4人の計6人が、中心的な手伝い衆(テッタイシュ)となる。この6人は前もって「当寄り合い」という集落の集いで、年齢などを考慮して公平に決められる。そして祭り前日の朝、メインの手伝い衆のほか、親類や隣近所からも助っ人が当家宅に集まって、大わらわの準備が始まる。主な作業は、神前の供物と直会の膳の支度。料理の下ごしらえだけでなく、枝を削って箸をこしらえたり、稲藁を綯って注連飾りをこしらえたりと、細かな手作業も同時に進む。振る舞い酒を頂きながらの賑やかな共同作業がピークに達するのは、祭り前夜の「饗(キョウ)アウチ」だ。饗とは、蒸した米を押し固めてつくる、独特の供物のこと。座敷に広げた筵の上に、蒸したての米を二人がシャモジで広げ、残りの手伝い衆が箕(※2)やウチワで扇いで冷ます。その間、延々と唄が謡われ、手拍子がつく。そして蒸米を直径十数㎝ほどの大きさに固く丸め、祭用の大きな饗桶に入れていく。実際には、入れるというよりも、ポーンと放り込むのだが、その際、饗桶を持つ役の二人はユラユラと桶を揺らすものだから、投げる方はたまらない。

ねじり鉢巻きとたすき姿で臨む、饗アウチ。

ねじり鉢巻きとたすき姿で臨む、饗アウチ。丸めた米を投げるときに米が散るので、ブルーシートは不可欠。唄が苦手なメンバーばかりのときは、古老の唄を録音したテープをかけながら饗をつくることもある。

「饗アウチ」がここまで賑わうのは、お酒が入っているからだけではない。この桶を揺らす所作は、男女の営みを表現しているともいわれ、その際に謡われる「愛宕さん」や「お伊勢参り」などの歌詞にも、男女和合の意味合いが暗に含まれている。アドリブの歌詞が加わることもあり、唄が達者な手伝い衆がいれば、場はさらに盛り上がる。子孫繁栄の願いを、愉しくおおらかに表現してきた先人たち。この賑やかな場のなかで、その心はいとも容易に広がり、時空を超えてつながる。これぞ、共同作業と唄を通して伝えてきた、先人の真骨頂だ。

一方で、祭り当日の神事や直会の細かな順序などについては、記憶するのが難しいためか、詳細を記録した古い巻物が残されている。それを見ながら、非常に古い言い回しの口上(講儀)で座を進めていく。代々申し送りするうちに付け加えたり省略されたりと、相応の変遷を辿ったと推測される独特の口上。それでも「昔はもっとこうだった、ああだった」という古老たちから寄せられるエピソードは絶えず、本来の内容はとても多様であったことが偲ばれる。

当家の仕事は、祭の日程に合わせて供物となる作物の植え付けから始まる。

当家の仕事は、祭の日程に合わせて供物となる作物の植え付けから始まる。不作を見越して、他家にも植え付けをお願いする。亀は米ナスに彫刻刀で甲良を刻み、鶴は茗荷と唐辛子を使う。かつては酒も自家製であったため、ドブロクの保管場所(税務署対策)には随分と苦労したという。

 

この若宮祭は、山添村にある30集落のなかでも、詳細なところまで古式が継承されている珍しいケースだ。多くの集落では、当家の経済的・物理的な負担があまりにも大きいため、簡略化が進んでいる。数十万円の出費となる当家もあるというから、もっともな理由である。しかし、出費の内訳で大きな割合を占めるのは、手伝い衆へのお礼として、打ち上げ時に振る舞われる豪華な会席料理の注文代。饗の膳で神前や直会に出す魚は、頭付きのイワシであるのに対して、打ち上げでは頭付きの大きな鯛やブリが出る。経済的には、祭り本来の古式の膳よりも、近年に付け加えられた外注料理の方が負担が大きいのだ。なので、伝統行事を簡略化するにあたって、古式の食文化や唄まで廃してしまうのは、残念に感じられてならない。当家の負担をできる限り減らしながら、核となる部分をどのように新しく継承していくのか。大きな岐路にさしかかっている今こそ、祭りの構成員ではない私たちにも何らかの役割があるのかもしれない。

地方に残された行事は、有名な寺社仏閣のそれとはまた異なる、無名の祖先たちの生活に根ざした工夫や思いに触れることのできる、貴重な機会だ。「7代」という長い歳月のなかに含まれる、多様性と普遍性。現代の多くの日本人にとっては、触れる機会がほとんどない、失われた感覚だ。一年に一度、玉手箱を開けて思い出し、次代に伝えるという行為は、自分自身も延々と連なる生命潮流のうちの1代である、という当たり前の感覚を再認識させてくれる。今、私たちは、千年に一度、いや、もしかしたら万年に一度の玉手箱を開けるべきときにさしかかっているのかもしれない。とすれば、温(タズ)ねるべき故(モト)は、より広大なところにあるはずだ。玉手箱を開けたとき、どこまで深く思い出すことができるだろう。どこか遠くの博物館や教室ではなく、まずは足下の大地の深層につながりたい。新しきを知るために。

神前に供える饗の膳。

神前に供える饗の膳。代々伝わる古い盆の上に、イワシ、芋煮、ナスと牛蒡と里芋の煮物、大根と人参の膾、輪にした藁を飾った饗などを供える。クロモジの枝を削ってつくった箸のそばにあるヘラも箸と呼び、檜を薄く切ってつくる。

ハサミザカナ

「ハサミザカナ」。昔は、手間のかかる贅沢な酒の肴だった豆腐とコンニャクを、三角形に切って重箱に詰める。                                  

 

[参考文献] 波多野村史(1962年5月発行;同村を含めた計3村の合併で1956年、山添村が誕生)

※1
祭祀を執り行うにあたっての準備などについて、中心的な役割を果たす人物や家。大和高原では、集落内で年ごとに輪番制で担当する。

※2
中に穀物を入れてあおり、殻やごみをふるい分ける農具。.古くから箕には霊的な力が宿るとされ、今でも各地の伝統行事で使用されることがある。

写真撮影:山添村春日のSさん

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。