おやつは、みんなで食べる宝石!

昔は赤砂糖を使用したので、焼き上がりは茶色っぽかった。

昔は赤砂糖を使用したので、焼き上がりは茶色っぽかった。

大和では昔、おやつのことを、ホウセキ、ホセキと呼んでいた。昭和30年代頃までのホウセキは、柿やイチジク、グミ、煎った栗やそら豆、さつま芋、かき餅やキリコ(あられ)など、身近な果実や自家製の保存食がメイン。甘いものが貴重だった当時は、大人も子どももホウセキのひとときを心待ちにしていたという。

ところで、季節や天候によって、果実や保存食などのホウセキが手に入りにくい日や、ちょっと気が向いたときには、自家栽培の小麦粉を使ったホウセキの出番だ。砂糖を入れた小麦粉を水で溶き、鉄鍋でこんがりと焼く。大和高原では「すり焼き」のほか、「シリシリ」(奈良市都祁:旧・都祁村)、奈良盆地では「シキシキ」とも呼ばれた。とても素朴なおやつだが、ぶ厚く焼くと腹持ちがいい。遠い距離を歩いて学校から帰った子どもたち、農作業で力仕事をこなす大人たち。お腹を空かせた老若男女に歓迎されたホウセキだった。

ホウロクは、今でいうフライパン。

ホウロクは、今でいうフライパン。油臭が移らないように、から煎り専用のホウロクと分けて使う家もあった。

「シリシリやったら、80過ぎのうちの母親が知ってるから、『焼いてほしい』って、頼んでみ。前もってお願いしとくと緊張しやるから、うちに来てから、その場で頼んでみ」。

大和高原、旧・都祁村のあれこれをいつも教えてくださる瓦職人の福井久朗さん。冬のある日、福井さんの言葉に甘えて、突然、福井家を訪れた。福井きみゑさん(84歳)は、庭先で障子紙の張り替えに精を出していた最中だったが、手を止めて「まあ、上がってや」と迎え入れてくださった。「シリシリが、どんなおやつだったか、実際につくってるところからみてみたいんです」という不躾なお願いに、「久々やから、うまいことできるかなあ」と言いつつも、にこやかに台所に招いてくださる。

ボールに小麦粉と砂糖をザックリ入れ、お水をチョイと入れる。箸でぐいぐい手早く練り混ぜて、生地の準備完了。ホウロク(※1)という浅底の鉄鍋に油をしき、生地をポッテリと流し込んで蓋をする。「子どもの頃、雨の日とかに、おじいさんが焼いてくれたんよ。雨以外は農作業で忙しかったからね」と、目を細める。昔話に花が咲き始めた途端、蓋を開けてひっくり返し、裏も焼いて出来上がり。

 

みんなで賑やかに

リクエストしてから実際に食べさせていただくまで、まさに、あっという間の出来事。外で障子を水洗いされていた福井さんご夫婦も加わり、「いただきます!」とみんなで一休み。ほくほく、もっちり。切り分けてくださった熱々のシリシリの、なんと美味しいこと!水で溶いた小麦粉のシンプルなおやつが、こんなにも嬉しく感じられるのは何故だろう。忙しく仕事をしていた合間に手を止めてまでつくってくださったこと、みんなで賑やかに食べたこと、きみゑさんがにこにこ笑顔で昔のことを教えてくださったこと。確かに、そのすべてがあったから、美味しかったのだ。

至極シンプルな材料。思い立ったらすぐにできる。そんなすり焼きだが、実は、昔のものを忠実に再現するのは、とてつもなく難しく、ほぼ不可能に近いと言っても過言ではない。食料をほぼ自給自足していた当時、麦は米の裏作、または畑作として昔から重要な作物だった。初夏に刈り取った麦は、村の粉挽き屋さんにもっていって粉にしてもらう。地域の水車でじっくり挽いた粉はやや荒めで、皮が混じることもあったが、しっかりと小麦の味がした。

もちろん、油も自給。各家で菜種を育て、種を採ったら油屋さんや農協に出し、油と交換してもらうのだ。しかも当時、油と言えば、食用ではなく照明用。小皿に油を注いで灯芯に灯す灯明は、数箇所しか電灯がなかった当時の一般民家には、不可欠な明かりだった。

揚げ物など、油を使う料理は、日本でも古代から調理されていたようだが、特権階級のみ可能であった贅沢なメニュー。クルミ油を塗った平銅鍋で水溶き小麦粉を焼いた「麩の焼」が、茶菓子として千利休に好まれたという16世紀の記録もあるが、一般庶民にまで食用油が浸透していったのは江戸時代中期頃。さらに現在のように惜しみなく使うようになったのは高度経済成長期に入ってからで、その頃になると油の製造方法もまったく異なってくる。今や、小麦の約90%、油用菜種の99.5%以上を輸入に依存している日本。本来のすり焼きを思い出すということは、日本の原風景を思い出すことでもあったのだ。

菜の花畑が広がる春、穂がそよぐ麦秋の初夏。さらに多忙な田植え、茶刈り、養蚕の作業に追われながら、蛍が乱舞し始める虫送り(※2)の季節。絶え間なく続く大変な農作業を乗り切って、ようよう手に入る小麦と菜種。思い出を語ってくださるきみゑさんの笑顔の向こうには、菜の花や麦穂がそよぐ美しい風景があったのだ。手を尽くした貴重な小麦粉と油を使った、ホウセキ。子どもたちの目には、それはまさに宝石のように見えていたに違いない。すり焼きをほお張る子どもたちの瞳の輝きが目に浮かぶ。その輝きこそが、この国の宝物であったことを、忘れてはいけない。

※1 ホウロク
焙烙。16世紀に登場し、江戸時代から昭和時代にかけて、フライパンが普及するまで広く使われた浅底の調理器具。土製の焼き物もあるが、鋳物の鉄鍋が主流。主に豆や茶、栗などを炒るために、囲炉裏、かまど、七輪、火鉢などに載せて使用した。

※2 虫送り
日本各地で行われていた伝統行事で、作物の害虫駆逐と虫供養、豊作などを祈願する。主に初夏、松明を灯して行列で村境にいき、村の外に虫を送り出す儀礼を行う。県下では今も、毎年6月16日に天理市山田地区などで行われている。

 

すり焼き(シリシリ)の作り方

①小麦粉に好みの分量の砂糖と、塩少々を入れる。よくかき混ぜながら水を少しずつ加え、好みの固さの生地を作る。厚く焼くときは、固めに。
②フライパンに油を熱して、生地を丸く落とし、蓋をして焼く。表面が乾いてきたら、裏表を返し、両面がこんがり焼ければ出来上がり。

生地の緩さは家によってさまざま。

生地の緩さは家によってさまざま。固めの生地で厚く焼くと腹持ちが良い。緩い生地で小さく焼いて、切らずに端からクルクルと巻いて食べる家も。

放射線状にきりわけていただく

放射線状にきりわけていただく

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。