寒い冬こそ、亀が大活躍

半世紀ほど昔の話。寒い冬になると、山里のあちらこちらに亀が出没していたという。亀の甲羅のような防寒着「おいね」を背負った里人たちだ。

やまとのおいね

左右上部にひもをつけ、下部に輪をつけてひもを通し、胸の中央でで交差させて結ぶ。写真は、明治40年生まれの女性が銘仙の布で縫った「おいね」。ちょっとした買い物の時においねた、お出かけ用。  (山添村助命 奥西家)

いつごろから使われるようになったか不明だが、大和高原近隣の方言「おいねる(背負う)」が、その語源になったといわれる。子守用の「ねんねこ」同様、背中に着用するため、まさに亀の甲羅のようなかっこう。学校の学芸会の「浦島太郎」で亀を演じるときには欠かせない衣装だったという。中に綿が詰められているが、上等な「おいね」は真綿を入れることもあり、高価な銘仙の生地で縫ったお出かけ用の「おいね」もあった。多くの場合、真綿は、自家生産した繭からとったものだ。

季節でいうと10月から4月ごろまで、主に女性が使ったが、男性が着けることもあった。最大の特徴は袖がないため動きやすく、屋内外の仕事の際に便利な点。「背中を温めると風邪を引きにくい」という古くからの智恵をコンパクトに体現しているわけだ。しかも衣類のうえからヒモで結ぶので「茶刈りの仕事中、暑なったら外して、茶の木にヒョイとおいとける」(山添村北野の田和庸保さん:79歳)という手軽さからも重宝された。庸保さんの従姉の田和寿子さん(山添村北野:83歳)も、懐かしそうに語ってくださる。

「ワシらの母親の代までは、ようおいねてたよ。若い子(同世代)は明るい色や柄の布で縫ったから、後ろから『おいね』を見れば、誰かわかったもんや。もちろん全部、手縫いやよ。縫い方は、『見覚え』。夜なべや雨の日とかに、母親が縫ってるのを、小さいときから見てたから、自然と覚えるんよ。昔はね、山仕事(炭焼きの手伝いなど)とか、栗の実拾いとか、家族や近所の仲間と一緒に行っとったんよ。それで野小屋とかで休憩するやろ。そんときに、みんなで「おいね」を見せあったりすんねん。一人一人、形が違うんよ。大きさや角の形もそれぞれで、丸まってたり、小さかったり、大きかったり。それぞれ工夫してておもろいんやけど、そういうのをヒントに、『次、縫うときは、こうしてみよかな』って、縫うんよ」

やまとのおいね

この冬、著者が所属する「大和高原文化の会」、畿央大学(奈良県広陵町)、福祉法人「青葉仁会」で共同開発した現代版「やまとのおいね」。L3000円、M2800円、子ども用2500円。やわらかいフリース生地に、軽くて保温性の高い化繊綿が詰めてあり、想像以上に温かい。                   問い合わせ0743-87-0001      (大和高原文化の会)

かつて大和高原の冬は、天然の凍り豆腐の産地でもあったほどに寒かった。そんな季節にも仕事に精を出していた、一点ものの亀の甲を背負った人々。女性から女性へと手作りで引き継がれてきたその背景には、共同作業という絆があった。仕事が、「おいね」のお披露目の場であり、創作のヒントを見出す場にもなっていたのだ。

それにしても、今の時代からは、さぞかし厳しく辛かったであろうと想像される冬の山行き(山仕事)。しかし意外なことに、「みんなで仕事するから辛くない。楽しい思い出が多いよ」との応え。冬の亀の甲は、助け合い繋がりあって生きてきた証でもあったのだ。当時の「おいね」を背中に着けてみる。「みんなつながっているんや」という声が聞こえたような気がした。そして、じんわり、心が温まった。

大和高原…奈良県東北部に位置する山間地で、主要産業は茶と米。古くは「東山中」や「東山内」とも呼ばれ、凍り豆腐、養蚕、炭、竹製品、藤箕の生産も盛んだった。題目立、おかげ踊り、太鼓踊り、豊田楽をはじめ、個性的な伝統芸能の宝庫でもある。現在は、奈良市、天理市、山添村、宇陀市、桜井市に分断されているが、独自の民俗風習をもつ約130の集落(明治時代の旧村)からなる、一つの山間文化圏である。