林業とは、「山に木を植え、育て、伐って売る仕事」です。地拵え植林に始まり、夏の過酷な下刈は約10年間、更につる切りなどの仕事を断続的に行い、木の成長に合わせて間伐を行う。ここまでを前回までにお話してきました。そろそろお気づきだと思いますが、こうした作業を超長期間延々とひたすら行っているのにその見返り(収入)がありません。40年生頃に行う2回目の間伐で丸太を搬出、販売して収入を得るまでは、全然収入がないのです。
 
1回目の間伐は木が小さいので、搬出して販売してもそのコストに見合うだけの価格で売れません。やむを得ず森林の中に切り捨て放置します。しかし木材の価格が長期低迷している現在、2回目の間伐で収入を上げることも「至難の技」で、ご紹介したような「高性能林業機械」を駆使してドラスティックに効率を上げることにより、なんとか収入を得ている次第です。もちろん、これまでかけた時間とコストに見合う額とはとても言えません。さらに、こうした高効率のシステムに不可欠な林業機械はあまりにも高価です。よって今でも「老齢化した作業者が昔ながらのやり方で伐採、搬出する」というのが一般的です。つまり2回目の間伐も収入がないということになります。
 
以前お話したとおり当地は杉の産地として有名な林業地帯です。言いかえると、とくに杉に適した地質と気候で、非常に成長が早く、どんどん大きくなります。先日お会いした関東地方の林業経営者は、当地の40年生の杉を見て「60年生かと思った」そうです。つまり関東地方では40年生ではまだ収入間伐はできないということです。
 

運び出した丸太

出典:林野庁資料 

 

50年先のことはわからない

当社の森林の大半は杉林ですが、その林令は40~50年生の面積が突出しています。じつは日本中の杉やヒノキの森林が同様なのだそうです。つまり40~50年前、国を上げて植林を行ったということです。かつて行われたこの政策は、通称「拡大造林政策」と言われています。
 
昔々、私がまだ小学生だった頃、祖父が言いました。「これまで延々と山に木を植えてきた。おまえが50歳になる頃には森林は成長し、おまえは大金持ちだ」 祖父が植えた杉の木の多くは「ヤブクグリ」という在来種で、この杉は粘り気があって材質は非常に良いのですが、「藪をくぐる」という名の通り根元の部分が少し曲がっています。その木を指さしながらさらに曰く「材質が良いから電柱材としてどんどん売れる。根元の曲がった部分は下駄の材料には最適だ」・・・ 当社では都市に住む子供たちを対象に、「森林環境教育プログラム」を毎年開催しています。子供たちを前にこの祖父の話をすると、どっと笑いがおきます。そりゃそうですよね。「木の電柱なんて見たこともない」「下駄というのは大昔の履物だろう」「電柱や下駄の材料を目指すとは、田舎のおじいさんらしい」・・・ 祖父は東大の林学科卒、当時はドイツ林学が全盛で、蔵には今でも英語やドイツ語の原書が多数。柔道が自慢の大男で、馬で山を回っていたそうですが、その勉強量には誰もが舌を巻いていました。子供たちが失笑した我家の森林は、じつは50年前当時の最先端の技術とインテリジェンスが作り出した、いわば日本林学の粋を集め作られたものなのです。これが意味することは、当時の東大のレベルが低いとか、林学がお粗末というのでは決してありません。東大であろうがドイツ林学であろうが、そもそも人間がいくら考えても、50年先のことはわからない。むしろ陳腐化してしまうということです。
昨年秋、私は57歳になりました。
 

profile

田島信太郎 Shintaro Tajima
田島山業株式会社 代表取締役/大分県林業経営者協会理事/(社)九州経済連合会九州次世代林業研究会委員/日田林業500年を考える会会長 1980年慶応義塾大学法学部卒。西武セゾングループ代表室勤務を経て、1988年、父、祖父の急逝に伴い、家業を継ぎ林業経営者となる。日田林業500年目にあたる1991年、子どもたちを対象とした森林環境教育、また学生、社会人の森林ボランティア受入れを開始。「断固森林を守る」取り組みを続けている。

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