江分利満家の方かい 山口正介

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瞳が『男性自身』の連載の中で、本コラムのタイトルと同じ、「変奇館その後」を書いたのは四一九回目で一九七二年の一月のことだから、実際に書いたのは前年の暮れだっただろう。
 その中で、変奇館が出来上がってから三年近くになると書いている。
 これからしばらく、その「変奇館その後」で書いたことについて考えてみたい。

 - この家を永井荷風の偏奇館の真似をして変奇館と名づけた。すなわち私は変奇館主人である。(「変奇館その後」)
 そのように名づけたのには理由がある。当初、建築家に倉庫のような、未完成な感じの家にしてくださいと注文を出したのは瞳の方だった。
 これに前衛的な建築を得意とするK・T女史が、我が意を得たり、と感じて設計したのが瞳の自邸、のちの変奇館なのだ。
 これは瞳一流の策略で、「未完成の感じ」としたのは、建築家の美的感覚を拒否するためだったという。
 いや、建築家の美的感覚が駄目だということではない。瞳には瞳の美的感覚があり、それと彼女の美的感覚が同じであるはずはなく、したがって最初から、美的感覚が入らないような設計をしてくれと頼んだのだった。
 ところが、彼女の得意とするのは当時、最先端のハイテクだかローテクで、コンクリートの打ちっぱなしとむき出しの鉄骨というのが得意技であったために、両者の思惑は図らずも一致してしまった。
 これが悲劇であったか喜劇であったか。
 瞳は新築なった変奇館について何度も何度も書くことになる。
 それは、新建築というものが、住むに大変、雨露を凌ぐに大変、寒暖の差が激しい、と書きたい放題のものだった。
 もともと瞳のエッセイには自分の住んでいた家について書いているものが多いということもある。生まれた家、鎌倉の家、軽井沢の家や麻布の家について、これまで細かく繰り返し書いてきたのだ。
 だから終の住処ともなる変奇館について書くのは当然の帰結であった。

 しかし、K・T女史は、自分や現代建築に対する攻撃と受け取ったようだ。
「私のことについて書かれるのはちっともかまいませんし、有難いくらいですが、お疲れになるんじゃないかと思って、それがお気の毒です」(「変奇館その後」)と婉曲なお叱りを受けることとなった。
 

 

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