江分利満家の方かい 山口正介

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魯山人については、いずれまとめて書かなければならないと思っていた。
 瞳が繰り返し、わが家の食器はすべて魯山人だったと書いてきたからだ。
 魯山人が、扁額、篆刻、書画、とりわけ陶器の作家として、このところ高く評価されていることは、あらためて書くまでもないだろう。
 僕が生まれたころは食卓に並ぶ食器はすべて魯山人の物だったと記憶している。
 御飯茶碗、小鉢、取り皿、菓子皿、それに箸置きなどだ。
 なぜ、そんなことになったのか。

 瞳は魯山人に会ったことがあるという。鎌倉の山崎にひらいた、星岡窯に、母の静子に連れられて行ったのだ。
 なんで、おばあちゃんはそんなところに行ったの、と僕が聞くと、瞳は「面白そうな人がいるというと、紹介もないのに、訪ねていってしまうのだ」と答えた。
 しかし、よく瞳の作品を読んでみると、静子は戦後、鎌倉で「大仏屋」という骨董品の店を経営していたと書かれている。そして、そこであつかう商品として魯山人の作品を買いつけにいったようだ。
 一窯、まるごと購入したという。店で扱うのならば、そのくらいは買ったとしてもおかしくない。
 そもそも、今でこそ高額で取引されているが、当時の魯山人の作品、とりわけ食器は決して美術品として取引されていたわけではない。その作品はある意味で大量生産されて、銀座をはじめとする料理屋で日常的に使われていた。銀座の老舗である竹葉亭では割と最近まで使われていたと思う。
 窯印には「魯」「呂」「口」などがあり、それぞれ値段を現しているというが、どちらが高いのかは知らない。

 このように、魯山人の作品は普段遣いの食器として重宝されていた。なんとも味わいがいい。使い勝手が良い。ほっこりと柔らかく、品のないテカリがない。それは低温でゆっくり焼成するからだといわれている。したがって作品は柔らかく、割れやすいともいう。魯山人の窯では割れたら同じものと交換しますというサービスをしていたことからも、割れやすいのは当人も想定内だったのだろう。 山口家の台所をあずかっていた瞳の妻の治子はしばしば魯山人の食器を割ってしまった。
 そのたびに静子から、「あらまた北叔父さんを割ったのね」といわれたという。
 治子は魯山人を北叔父さんという親戚だと思っていたのだ。