象牙の箸

時節柄、あまり取り上げたくない話になるのかもしれないが、山口瞳を語る上で避けて通れないのが、象牙の箸だ。
 今現在、象牙の利用はあまり褒められたことではない。アフリカ象が絶滅危惧種だからだ。日本の伝統工芸品には、紫檀、黒檀など外国産の素材を使うものが多い。これ大変に珍しいことらしい。

- わからないことが、たくさんある。そのなかのひとつが、象牙の箸である。
 私のところでは、私の物心がついてから、祖父母も両親も、私も兄も弟も妹も、みんな象牙の箸をつかっていた。それが贅沢であるのか、そうでないのか、ということがわからない。(『男性自身』第428回「わからないこと」)
 いまならば、それは贅沢です、の一言だろう。
- 伜の庄助が生まれたとき、すでにして彼は象牙の箸を持っていた。(同前)

 瞳は僕のことを、作中では庄助と表記している。この象牙の箸は、瞳の母である静子が自らの三味線の撥を箸に造り直させたものだと聞かされていた。
 静子は食卓の上にプラスティック製品が置かれるのを嫌い、買ってきた醤油を会社の容器のまま乗せることも嫌った。粋じゃない、というのだ。したがって箸も象牙ということになった。瞳も書いている通り、塗り箸は剥げるし、木製のものは味が沁みてくるように思えて嫌なのだ。
 象牙は人間の歯と固さが近いので、食感がいいのだということをどこかで読んだような気がする。
 瞳の死後、母の治子は瞳の箸を受け継ぎたいと思っていたのだか、どこを探しても見当たらなかった。故人の使っていた箸はお棺に入れて、一緒に火葬するのだということを、そのときに知った。
 僕が成人してから使っていた象牙の箸は少し短かった。四角い夫婦箸を買って、男性用を瞳が、女性用を僕用にしたらしい。そして、母は丸いものを使っていた。だから僕のは女性用だったから短かったのだ。

 母が亡くなる半年ばかり前に、母の箸が割れるということがあった。そこで僕が使っていたものを母に渡し、僕は新しく、自分の手のサイズに合った象牙の箸を買った。これは、まさしく大変な贅沢だった。銀座の老舗のデパートで買ったのだが、最近行ったら、もう売っていなかった。