床は拭き漆(2)

食堂と隣接する台所の床を拭き漆にすることになった。頑亭先生が小柄な身体をかがめ手際よく漆を塗っていく。
 その返す片手で着古した下着で漆を拭き取る。だから拭き漆なのだ。
 たった一度のこの作業で塗られた漆は三十余年を経たいまでも艶やかで、むしろ味わいを深めている。漆の力、恐るべし、というところだろうか。
 しかし、この漆を塗る過程で頑亭さんが絶望的な声をあげる場面があった。

 ああ、だから口を酸っぱくして、何度も言ったのになあ、とおっしゃる。
 見ると塗り終わった箇所が濁った黒色に変色している。それまでは綺麗な透明感のある、いわゆる漆の色だった。それが、ある箇所だけ、汚れた黒色になってしまった。
 前回までに触れたように、壁は本漆喰で塗られていた。その漆喰が乾いて粉状になり、床に落ちていたらしい。また塗る過程でも多少の漆喰が床に落ちていたのだ。壁塗りが終わってから職人さんたちは床を綺麗に掃き清めていたが、それでも完全ではなかったということだろう。微量な漆喰の成分と漆が反応して発色してしまったのだ。
 何事も完璧、完全を以て旨とする頑亭先生は心底、落胆している様子だった。
 それでも、いずれは色が薄くなるだろうとおっしゃる。漆には異物を排出する作用もあるようだった。さすがは漆だ。

 この間、父、山口瞳と母、治子は都心のホテルに避難していた。漆にかぶれるのが怖いというのだ。僕は作業中の留守番をかねて頑亭先生の助手を勤めるため自宅に残っていたのだ。
 駅前にある、寿司屋の主人は、フフフと笑いながら、漆かぶれになるから、山口さんところには、もう出前はしません、と彼一流の皮肉を言った。しかしその後も痒い痒いと厭味を言いながら、いつも通り配達してくれた。