変奇館水没(2)

国立駅の南側は、国分寺崖線と立川崖線に挟まれた平坦な土地だ。二つの崖線は、不思議なことに多摩川の下流から上流に向かって低くなっている。液体は粘度を持っているので、傾斜のゆるやかな土地では流れず、溜まるのだった。それが被害を大きくした。

 ここで、変奇館が1978年9 月に増改築したことにも触れなければならない。水害は丁度、その一年後だった。
 増築したのは、僕の部屋だった。またそれに合わせて父が「僕だって自分の部屋が欲しい」と言って、広すぎた応接間を二つに分けて、半分を父の書斎とした。念願であった日本間も六畳二間を設えた。

 僕は都内での十年ばかりの下宿生活を切り上げ、親元に戻った。放蕩息子の帰還である。だから、水害のあった夜、僕は一人で留守番かたがた読書していたのだった。
 成人した男子が親と同居するなど考えられないと言って、当初の設計者であった超前衛的な女流建築家は手を引き、弟子筋の年若い好青年が跡をついで増改築を引き受けてくれた。
 その彼が、水害の惨状を目の当たりにして、どうして水が引いたのか分からないとつぶやいた。浸水の深さは最大で1m28㎝であったが、その夜のうちに10㎝ほどまでに引いていた。
 我が家の下水は一旦、半地下のさらに下にあるプールに溜まり、ポンプで市の下水道に揚水されるのだが、そのポンプは停電によって停まっていた。ことほどさように謎の多い家であった。つまり変奇館である。

 帰宅した母親が半地下に降りようとしたので、僕が「感電する!降りちゃだめだ!」と叫ぶと、母は「こんなもん、空襲に比べりゃ、なんともないんだよぉ」と気弱な僕を叱責した。母、治子は生まれ育った墨田区向島で東京大空襲を奇跡的に生き延びている。
 建築家は土地の歴史を有史以前にまで遡り調べる必要があるのではないか。
 
 
 

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