私は23歳の時にタイル職人を目指した。

陶芸家の父。イコン画家の母。
そんな両親の影響で留学したイタリアで、幾何学模様の大理石の床、
絨毯のようなガラスモザイクの壁や天井、石積みやレンガ造りの躯体のままの意匠、
数々の魅力的な空間に出会い、こういうものに関係した仕事がしたいと
漠然と思いながら帰国したのが、22 歳のときだった。

ちょうど東京から岡山にアトリエを移し、東京に暮らし岡山で制作するという
両親の手伝いで幾度となく帯同していたある日、名古屋に立ち寄った。
父がデザインしたタイルの施工現場を視察するためだった。
大手ゼネコン設計部部長や現場所長、先生と呼ばれる父、
いわゆるお偉いさんたちに率いられるようにして、その現場に入った。
目に飛び込んだのは、オリーブ色の地に、鮮やかなパープルのラインが入った美しいタイル。
だが先生である父は、シャープなラインとタイルの目地がずれているのが気に入らず、
職人にもっとうまく貼れと言わんばかりの機嫌の悪さだった。
指摘された職人は、「ラインを合わせれば目地がずれるし、目地を合わせればラインがずれる」
そう必死に説明したが、先生もゆずらない。
「もともと歪んでいるタイルをまっすぐ貼れというのが無理な話じゃないか…」
職人側の味方になりつつあった私に、次の瞬間衝撃が走った。
親方が、ずれた目地にグラインダーで刃を入れ、模様と目地をぴたりと合わせたのだ。
一枚ずつがすべて違うデザインの焼き物のタイル。
失敗すれば二度と同じものは作れないことは、焼き物に囲まれて育った私にはすぐわかった。
父は瞬時に「それでいこう」と言い、親方は笑顔でうなずいた。
工期を気にする監督たちは反対したが、父は「それをどうにかするのが君たちの仕事だ」
と言い残して現場をあとにした。
私は父を追いながら、「もっと現場にいたい、もう一度あの目地をそろえる妙技をみたい」と思った。
一連の光景の随所に、ものつくりの神髄をみた気がした。

東京に帰り、職業訓練校タイル施工科に入り基礎を学び、私はタイル職人見習いとなった。
1年後、更なる衝撃を受け海外に飛び出すことになろうとはこの時はまだ知らない。

いま40 歳。独立し、白石普タイルワークスと号して7 年。
もう親方といわれる立場になった。
いまなら、あの時の親方と同じことができるだろう。
でもまだ、ひとりの人生を変えるほどの衝撃を与えたことはない。

タイル職人への一歩を踏み出してからのさまざまな出会いは、まさしく私の人生を変えた。
そんな素晴らしいタイルの魅力を、これから少しずつ伝えようと思う。

子供のころ、両親の寝室にいるのが好きだった。

ベッドに座り込み時間も忘れ、押入れの襖に見惚れていた。
2枚の襖には幾何学模様を用いたオプティカルアートの先駆者、
ヴィクトル・ヴァザルリの大きなポスターが貼られていた。
でっぱっているのか、ひっこんでいるのか?
平らなのか、球なのか?
動いて見えたり、吸い込まれそうになったりもする。

タイル職人への道を一歩踏み出した私は、
様々な技能をどんどん吸収し、充実した日々を送っていた。
とくに親方にくっついてタイルの割付けをする「墨出し」は面白く、
設計士や現場監督ではなく職人自身が割付けていることに驚いた。
ろくに勉強をしてこなかったという親方が、
大きな壁を前にして、さっと見ただけで
目地を何ミリにすれば、何枚のタイルが切らずに入る
と、電卓も使わず割付ける。
そして左官にタイル下地の寸法を指示する。
そんな様子は痛快だった。

職人になって1年経った24才の時に結婚した。
世の中は神戸の震災や地下鉄サリン事件で騒然となっていた頃だ。
少し暖かくなってきた頃、知人から1本のビデオテープを借りた。
NHK『北アフリカ紀行』。
モロッコのモザイク工房を特集していた。
なんだこれは?
タイルなのか?
魅惑的な幾何学模様と色彩。
ヴァザルリよりも複雑だ。
どうやって割付けているんだ?

その2ヶ月後、結婚してから半年後、
妻に見送られて成田空港を発った。
目指すはビデオでみたあの工房があるモロッコのフェズ。
発つ2週間ほど前には妻が妊娠していることが分かったが、
あのタイルの魔法、モザイクの宇宙の秘密を解き明かす決意は変わらなかった。

ヴィクトル・ヴァザルリ

ヴィクトル・ヴァザルリ

モロッコのタイル

モロッコのタイル

1995年9月、アムステルダム経由で
モロッコ最大の都市カサブランカの空港に着いた私。
名画カサブランカのハンフリー・ボガートさながら
颯爽と降り立つつもりが、アラブ独特の雰囲気に圧倒され
はじめはかなりおどおどしていた。
言葉も分からず、文字も読めない。
困っていそうだと思われたのか、モロッコ人が寄ってきて
何か親切に教えてくれているのだろうが、
どうも怒っているように聞こえるし、怒っているような顔をしている。
無事入国審査を終え、市街にどうやって行くのか、あたりを見渡すと
タイルモザイクの壁画が目に飛び込んできた。

はじめて間近でみるモザイク。
目地もなく異形のタイルが組み合わさり、象嵌細工のようだ。
無限なる宇宙を表現する幾何学模様に吸い込まれるように、
1時間は見入っていたであろう。
触ってみた。
鮮やかな色は低火度で焼いた施釉タイルだ。
見れば見るほど疑問が湧く。
この疑問を解き明かそう、そのためにここに来た。
ここにたどり着くまでの不安を期待が上回った。

モロッコはアフリカ大陸の北西端、スペインの真南に位置し、
かつてはローマ帝国の一部であった地中海沿岸の国だ。
北に地中海、西は大西洋、東はサハラ砂漠、
中央には4000m級のアトラス山脈が貫く。
1956年の独立までフランスの植民地だったこともあり
公用語はアラビア語だが、フランス語も通じる。
チュニジア、アルジェリア、モロッコの3国をアラビア語で
日の沈むところを意味する『マグレブ』と呼ぶが、
その最西端のモロッコは定冠詞を付け
『アル・マグレブ(日が沈む国)』という。

カサブランカを2日間観光し、列車で4時間、目的地フェズに入った。
日出ずる国から日沈む国へ。
私は期待に胸ふくらませ駅に降り立つも
不安は拭えず、おどおどしながらまずホテルを探しはじめた。

モロッコの古都フェズに着き、新市街の安ホテルに住んだ。
フェズはフランス植民地時代に作られた近代的な新市街と
建設から1200年、いまだ中世の生活そのままの旧市街に分かれている。

私はこの3年前、イタリア留学時はトスカーナのシエナ大学に通い、
シエナは中世の町だと思っていたが、フェズの旧市街はその比ではない。
シエナも城壁の中は一般の車は入れないが、緊急車両や許可をもらった車は入ってくる。
一方フェズの城壁内はいっさい車など入ってこない、というより入れない。
すり鉢状の街に狭く急な坂道が迷路のように結ばれ、自転車や荷車も通れない。
あちこちに袋小路があり、それはまるでアリの巣のようだ。
あらゆる物資はロバが運び、人はひたすら歩く。

フェズに来てから毎日のように旧市街を歩いた。
私が門に入ると、かならず数人の男たちが寄ってくる。
ガイドするというもの、靴を磨かせてくれという子供、なにか売りつけてくるもの、
お金を恵んで欲しいという足などがない人、話しかけてスキをみているスリなど。
無視してもずっとついてくる。
そのうち空手の構えをすると逃げていくことに気づき、
やったこともない空手の真似をよくした。

モザイクを作っているところも何度か見たが、
観光客向けのパフォーマンスで、奥の工房までは入れてくれない。
見ているだけでもお金を要求され、土産物を売りつけてくる。
あとでわかったことだが、各工房ごとに得意な幾何学模様があり、
そこの親方が一子相伝でその図柄を守っているので、簡単には見せてくれないという。

約1ヶ月間、なんの進展もなく、「帰国」の二文字が頭をよぎりはじめた頃、
出発前にモロッコ政府観光局から紹介されて、
日本で一度会っていたモロッコ人のルイさんがフェズに現れた。
ルイさんはフェズ出身で、日本人と結婚し、日本で貿易商をしている。
「フェズで会おう」と約束していたのだが、
思ったよりも大きな街だし、居所がわからないだろうとあきらめていた。
どうしてわかったのか、泊まっているホテルのフロントに電話番号が残してあり、
電話して現状を話し、2日後に会うことになった。

会うまでにあちこち奔走してくれたのだろう、
会うとまず、外国人が工房に入るのは難しいこと、
入れるかわからないが、モザイクの学校があるということを教えられた。
居所がわかった訳を聞くと、そこら中で噂になっていたらしい。
「このホテルにジャッキー・チェンが住んでいる」って。

ルイさんに付き添われ、旧市街にある学校に行った。
校長室に通され、校長と先生とルイさんと私で卓を囲んだ。
3人はアラビア語で話すので、なにを話しているか全くわからない。
ルイさんと私は日本語、先生と私はイタリア語で話し、
談笑しているうちに、その場で入学が認められた。
わざわざ日本から来たという熱意と、
結婚しているということで、男として一人前だと信用されたのが大きかった。

この日、モロッコに来てからはじめて妻に電話した。
「しばらく帰らない」と。

フェズ旧市街

フェズ旧市街

旧市街の玄関・ブージュルード門

旧市街の玄関・ブージュルード門

学校に入ることになった私は、
フェズの新市街に家を借り、旧市街の学校に通うようになった。
近代的な新市街からバスに乗り、
旧市街の玄関口バトハ門へとタイムスリップする。
迷路を10分ほど歩くと、
Institut de Formation aux Mētiers Traditionnels du Bâtiment
という国立の建築伝統技術専門校に着く。

この学校は10代後半から20代前半の若者が
建築関係の仕事に就くために2年間、
専門的な知識と技能を習得し、ディプロマを取得すると
国王のお墨付きで就職を斡旋してくれるという、
日本でいう職業訓練校のようなもので、
製図、木工、絵画、漆喰造形、カリグラフィ、
そしてタイルモザイクのゼッリージュなどの科がある。
私は当然ながらゼッリージュ科に入った。

授業は、午前中が学科で午後が実技。
学科の授業は√(ルート)やπ(パイ)を使った初歩的な数学と、
三角定規とコンパスを使って描く幾何学模様の作図が主だった。
直線と円の組み合わせで現れる幾何学模様の作図は
私を惹きつけ、家でも暇さえあれば描くようになった。
余談だが、この時から約9年後、33歳の時に胆石症で入院したが、
幾何学模様の作図のおかげで、約3週間の入院生活に飽くことがなかった。
一方実技は、作業着に着替え、タイルの加工と
セメントを使ってのタイルの貼りつけの実習をした。
ゼッリージュの実技については、
次回、第6話で詳しく触れたいと思う。

学校の昼休みは、シエスタがあるので3時間ほど休みがあった。
「シエスタ」とはスペイン語やイタリア語で「昼寝」の意味で、
皆、家に帰ってゆっくり食事をとり、家族で団欒したり、
カフェで友達と語ったり、暑い日は本当に昼寝したりする。
クラスに突然現れた異邦人にみな興味をもったのか、
私は毎日違うクラスメイトから昼食を誘われ、各家庭を訪問することになった。
はじめはかなり意志の疎通に苦労したが、
お互いに通じるジェスチャーを見つけ、
お互いが解るアラビア語とフランス語を駆使し、
毎日顔を合わせていると自然と何が言いたいかわかるようになった。

モロッコは普段の生活はアラビア語のモロッコ方言「デリージャ」を使う。
いわゆるエジプトあたりで使う正統アラビア語「フスハー」とはまったく違い、
例のミミズが這ったようなアラビア文字を発音にあてて表記はするが、
実際は文字を持たない口語なので、学校の授業はフランス語で行われる。
授業で使う必要性と多少話せるイタリア語と似ているという理由で、
私はフランス語を勉強した。
ただし、挨拶や簡単な会話はモロッコ方言を使うことを心がけた。
モロッコでフランス語が公用語化されているというのは、
フランスがモロッコを約40年間植民地化した結果であり、
自分も日本人として、韓国や中国、東南アジアに対して
行ってきたことに違和感を覚えていたからだった。

いつもメモ帳を持ち歩き、毎日わからない単語を耳にするたびにメモし、
家に帰っては調べて覚えた。
3か月もすると日常会話は困らないようになった。
12月だというのに、家の前の生け垣には、
ブーゲンビリアが満開だ。

学校入口

学校入口

幾何学模様の作図

幾何学模様の作図

お昼

お昼

クラスメートたち

クラスメートたち

 

ゼッリージュ。
この言葉を知ったのはモロッコに来る約2か月前。
第2話でも書いたとおり、モロッコのモザイクを特集したテレビ番組だった。
モロッコでは、タイルそのもののことを'ゼッリージュ'という。
ただ、ここではモロッコのタイルモザイクのことを指したい。
ゼッリージュは施釉タイルを用いて複雑な幾何学模様を描くのが特徴で、
10世紀に出現し、当時はモロッコと同一の国であった今のスペイン、
イベリア半島南部アンダルース地方で発達した。

平面内をいろいろな形をしたタイルで隙間なく埋め尽くす操作、
これは数学的に平面充填またはタイル貼りといわれており、
埋め尽くしたものを平面充填形という。
一種類で平面を埋め尽くせる正多角形は下図のとおり
正三角形、正方形、正六角形の3種類のみで、
これは古代ギリシアの数学者ピタゴラスによって証明された。

01 正三角形

01 正三角形

02 正方形

02 正方形

03 正六角形

03 正六角形

また、1種類の場合と同じように辺の長さがすべて等しく
2種類以上の正多角形のみで出来ている平面充填形を
ピタゴラスから遅れること約300年、
数学におけるノーベル賞ともいわれるフィールズメダルの肖像にもなっている
アルキメデスが発見し、全部で下記の通り8種類ある。

1正三角形と正六角形

1 正三角形と正六角形

2 正三角形と正方形

2 正三角形と正方形

3 正三角形と正方形

3 正三角形と正方形

4 正三角形と正方形と正六角形

4 正三角形と正方形と
正六角形

5 正三角形と正六角形

5 正三角形と正六角形

6 正三角形と正十二角形

6 正三角形と正十二角形

7 正方形と正六角形と正十二角形

7 正方形と正六角形と
正十二角形

8 正方形と正八角形

8 正方形と正八角形

このアルキメデスの平面充填形をさまざま変形、進化させたものが
ゼッリージュの幾何学模様となっている。

ゼッリージュは約11センチの施釉タイルを
先の尖ったハンマーで加工して細かいピースを作る。

そのピースを床に裏返しに並べて、モルタルを流してパネルにする。

そのパネルを現場で設置するわけだが、


当時、日本で先端の技術だと思っていた
打ち込みタイルパネルのプレキャスト工法が、
約1000年前からモロッコでやられていたというのは、
日本のタイル職人の端くれとしてとてもショックだった。

モロッコという国は地中海沿岸の国で、
過去にはローマ帝国、その後ビザンチン帝国の支配を受けた影響で、
モザイク芸術の土壌はあった。
私が住んでいたフェズの近郊にもローマ遺跡があり、
今でも2000年前のモザイク画が雨ざらしのまま、見事に残っている。
ローマ美術、ビザンチン美術を体現し、現在でもイスラム美術の主役にあり、
廃れることなく進化、発展し続けているモロッコのモザイク'ゼッリージュ'は
モザイク芸術の集大成といえると私は考える。

 

モロッコに滞在して3か月。
日常会話には困らないようになり、暮らしにも慣れてきた。
ちょうどクリスマスの時期で、町は賑やかだ。
モロッコはフランスの植民地だったこともあるが、
キリストはイスラムの聖人でもあり、
モロッコ人たちも何の抵抗もなくクリスマスを祝う。

その休暇に、イタリアから友人が遊びに来た。
何の予定もたてず10日間いるという。
イタリア人の男性1人と日本人の女性2人。
イタリア留学時代に知り合った仲間だ。
必然的にイタリア語が共通言語になる。
覚えたてのフランス語を忘れかけたイタリア語へ
通訳しながらモロッコを案内することになった。
まずは、私が住むフェズを3日間歩きまわり、
大迷宮の世界遺産を満喫してもらった。
フェズからバスで1時間の古都メクネスや
素晴らしいモザイクが残るローマ遺跡のヴォリビリスなども観光した。

旅も半分に差しかかった12月30日の夜。
ワインを飲みながら談笑していると、皆から文句がではじめた。
モザイクタイルばかり見せられてもう飽きた。
イタリア人の友人も自分はローマ人なのに、
モロッコに来てローマ遺跡見せられても面白くない、と。
そして、サハラ砂漠に行きたいと言い出した。

大晦日の夜。
夜行の長距離バスで、サハラ砂漠の玄関口エルフードに向かった。
おんぼろバスに揺られて10時間。道は悪く、運転も荒い。
あんな過酷な年越しもう二度とないだろう。

エルフードに着き、タクシーをチャーターする。
ここではひたすら値段交渉。2時間は値切っていただろう。
はじめの言い値から三分の一くらいに下がるのが常だ。
サハラ砂漠の大砂丘メルズーガに着いたのは元日の夜だった。
真っ暗で砂丘は見えないが満天の星に包まれた。

砂丘に寝そべって長い時間、星空を眺めた。
ふと、今まで記憶してきた幾何学模様が頭をよぎった。
吸い込まれそうになる感覚は、
幾何学モザイク"ゼッリージュ"を見ている時と同じだ。

2500年前の古代ギリシャの数学者ピタゴラスは
『弦の響きには幾何学があり、天空の配置には音楽がある』といった。
このピタゴラスもイスラムの聖人の一人とされる。
また、音楽のmusicとタイルモザイクのmosaicは語源が同じという。
音楽や文芸を司るギリシャ神話の女神ミューズからだ。

ゼッリージュは無限なる宇宙なのだ。
とんでもないものにチャレンジしようとしていると、この時改めて感じた。
翌朝、早起きして日の出を見てから、享楽の街マラケシュへ向かった。

現在、タイル職人として日々タイルを貼り続ける私は、
よくあの星空を思い出す。
空間にいかに美しくタイルを敷き詰めるか。
そのポイントは貼る前に貼り上がりをイメージすること。
そして墨出しで、正確な直角をだすこと。
タイルがどんな形状であろうと正確な直角が大事である。
世界中のタイル職人がそうであるように、
それには三平方の定理、つまりピタゴラスの定理を使うのだ。

大砂丘

 

昨年春、ゼッリージュで新居の中庭を飾る仕事をいただいた。
はじめは、私がデザインしたタイルを
モロッコで作ってもらい、施工しようと考えていた。
だが、モロッコと日本とでは気象条件が違う。
ゼッリージュは800度くらいの低火度焼成のタイルなので、
雨に打たれて水を含み、凍ったりすると爆裂する凍害に合う。
また、物をぶつけた時などにすぐ釉薬が剥がれるなど、脆いのだ。

そこで、1350度の高火度磁器で手作りしようと考えた。
陶芸家の父の協力を得て、石膏型を作り、
型に粘土を押し込んでタイルを作る。
私は20年近くタイルを「貼る」ことに専念してきた。
ただこの仕事で、
タイルを自ら「作る」ということに大きな魅力を感じたのだった。

昨年11月に40歳の誕生パーティーを開いた。
20人ほど集まった仲間の前で、
タイルを作るアトリエを持つことを宣言した。
さっそくアトリエ探しを始めたところ、今年に入って
取引先のタイル問屋の空いている倉庫を貸していただけることになった。
ブロック積みで壁を作り、タイルや左官の仕上げはもちろん、
大工仕事や窓や扉の建具、電気や水道工事まで
仕事が終わると毎晩アトリエ作りをした。
ちょっとずつしか作業できないので、なかなか進まない。
震災の影響や資金不足で中断もした。
多くの友人に協力を得ながら、4月と言っていた完成目標が
6月になり、9月になり、延びに延びてとうとうこの11月に完成する。

倉庫跡

倉庫跡

ブロック積みの壁

ブロック積みの壁

アトリエにはタイルを愛する人が集えるように団欒スペースを設け、
教室や作品展も開けるタイルサロンとし、「ユークリッド」と名付けた。
ユークリッドは古代ギリシャの数学者で、
数学の聖典ともいうべき「原論」を著し、
幾何学の父と称される。
名付け親はチルチンびと広場の東京版のコラム「モザイクモザイク」
著者でもある、モザイク師の荒木智子さんだ。
タイルやモザイクは無限なる宇宙であり、
幾何学であるという見解が一致しての命名となった。

仕上げは屋号のモザイク

仕上げは屋号のモザイク

外観

外観 

七輪用の竈もある

七輪用の竈もある

100年前のペルシャのタイル

100年前のペルシャのタイル


正面玄関

正面玄関



そういえば、私はよくホラを吹く。
今回、アトリエを作るというのも誕生パーティーでのホラが始まりだった。
モロッコへゼッリージュを習得しに行くという時もそうであった。
何の根拠もないホラを吹いて、自分を追い詰め実行するのだ。
ホラ吹きの語源は、
ホラ貝の音が見た目以上に大きな音が鳴るということだそうだ。
小学生のとき、遠足で高尾山に行き
友人らとホラ貝を吹かせてもらったことがある。
私は大きな音を鳴らし、山伏に褒められたことを思い出した。

モロッコにも冬がある。
アフリカというと暑いというイメージがあったのだが、
私が住んでいたフェズは東京とほとんど同じ緯度にあり、四季がある。
9月にほとんど荷物を持たずに来た私は着る服がなく、
寒くなっていくたびに露店で安い服をさらに値切って買っていた。
モロッコで買った服を着込んでいくと、
徐々に風貌がモロッコ人のようになっていく。

フェズ近郊の町、ムーレイイドリスにて フェズ近郊の町、ムーレイイドリスにて

年末年始の休暇が終わり、いつも通り学校に通う日々。
ただ、何かが違う。
まわりがやけにそわそわしている。
そして、1月31日。
ラマダンが始まった。
ラマダンとはイスラムの暦、ヒジュラ暦の9月のことで
1ヵ月間、日の出から日の入りまでの間、一切の飲食を断つのだった。
そのかわりに夜は活気に満ち溢れ、毎晩お祭り騒ぎである。
学校の授業は平常通りあるが、
皆、眠たそうだし先生たちもやる気がない。
「お前はイスラム教徒じゃないから食べてもいいぞ」
などと言われるが、自分ひとりだけ食べるわけにもいかず、
私も断食をした。
といっても日の出から日の入りではなく、
学校に行く前に食べ、帰ってきたら食べるという
かなりインチキをした。
夜はたびたび友人たちに家に招待された。
ハリーラという煮込みスープと
シュパギーヤという甘いドーナツのようなものが必ず出てくる。
日の入りと同時に食べはじめ、
談笑したり仮眠しながら朝まで食べ続ける。
断食というともっと修行のようなものだと思っていたが、
私にはお祭りを楽しんでいるように見えた。
まるで日本の大みそかが1か月間続くようなものだ。

「冬の断食はまだいい」と皆、口々にそう言った。
そう、ヒジュラ暦は太陰暦で1年が354日しかない。
つまりラマダンの時期は毎年約11日間早まるのだ。
ちなみに今年2011年は8月1日がラマダン初日だった。
暑い夏は日も長く、
水も飲めないのはかなり過酷であろう。


ラマダンが終わると皆の私に対する見る目が変わった。
風貌だけでなく、心もモロッコ人のようになった気がした。
もうフェズの街で私に土産物を売りつけようとする者や
ガイドを志願してくる者は誰もいない。

春になった。
まだこころざし半ばだが、春になったら日本に帰ろうと私は決めていた。
「モロッコにも桜があるんだな。」
私は一番の友人ノルディンに聞いた。
「いや、あれはアーモンドの木だ。」
ノルディンは答える。
「日本の桜の木にそっくりだな。」 私が返すとノルディンがつぶやいた。
「日本に行ってみたいな。」


ノルディンにだけはそろそろ日本に帰ることを伝えていた。
学校は6月まである。
しかし帰らないといけない。
4月に子供が産まれるからだ。
妻をモロッコに呼び寄せ、モロッコでの出産も考えた。
その病院探しもノルディンが手伝ってくれた。
だが、妻の希望を尊重し日本で出産することにした。
学校は2年次が9月にまた始まる。
夏になったら戻ってこよう。
今度は妻と子供を連れて。


貼った後のタイルの釉薬をはがして絵を描く

貼った後のタイルの釉薬を
はがして絵を描く

貼った後のタイルの釉薬をはがして絵を描く

帰国する直前、友人に家に招かれた。
モロッコの煮込み料理'タジン'を
お父さんや兄弟たちと囲んでパンをつけながら食べる。
モロッコの食事は右手だけを使ってするので、
左利きの私はなかなか慣れなかった。
でもこの頃は器用にパンを使ってタジンを食べられるようになっていた。
お母さんや妹など女性は一緒に食事しない。
いつも台所の片隅で済ませているようだった。
食事が終わるとミントティーを飲みながら歓談した。
私が来てすぐのころ、ジェスチャーだけで暮らしていたこと。
ハンマム(銭湯)に行ってパンツを履いていないといけないのに、
私が全裸で入って止められたこと。
遊びでサッカーをしていて、皆負けず嫌いで
判定をめぐって大ゲンカしたこと。
いろんな思い出話をした。

突然、お父さんが口を開いた。
私に娘をもらって欲しいというのだ。
友人の妹のことだ。
私は25才、友人は21才、妹は18才だった。
「日本に妻がいます、子供が産まれるので来週日本に帰るんです。」
すぐ、断った。
「またフェズに戻ってくるだろ?その時でいい」と言う。
はじめは全く理解できなかった。
話しているうちに、
「妻がいる」では、断ったことになっていないのがわかった。
4人まで結婚できるというのだ。
モロッコには仕事がなく、
私と娘とが結婚すれば、兄である友人が
日本で仕事ができると考えたようだった。
丁重に断って友人の家をあとにした。

ゼッリージュに魅せられ、9月に日本を飛び出して7か月。
フェズで借りていたアパートはそのままに、日本に帰国した。
無事、女の子が産まれ、4か月経ち、首がすわった8月下旬、
今度は妻と赤ん坊を連れフェズに戻った。
フェズに戻って、最初にあいさつに行ったのが
一番仲のよかった例の友人の家だ。
結婚を断ったことで心配していたが、
皆あたたかく迎えてくれた。
赤ん坊を連れていると、今まで奥にいて
顔も見せなかった女性陣が次から次に出てくる。
逆に男どもは尻込みしているようだった。

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これから約1年、
タイルの修行と同時に
モロッコでの子育てが始まる。
わからないことがあると友人のお母さんを訪ねる。
男は全く子育てのことになると役に立たない。
今までイスラムは男性社会で女性は可哀そうだと思っていた。
それが、いざ家庭を持ってみると
女性が社会を支えているのだと実感した。

9月、学校の2年次がはじまった。
2年次は工房でのインターンシップがあるというので、
もともと工房で修行したいと思っていた私はこの時を心待ちにしていた。
妻の方は、ジェスチャーを使っての新しい暮らしがはじまった。
1年前の私と、そして生後5か月の娘と同じように。

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駆け出しのタイル職人の時に
テレビ番組で観たモロッコのタイルモザイクに魅せられた。
現地の工房で修行したいと思い、モロッコに渡って1年。
フェズの街に来たのもテレビ番組で観た工房があったからだ。
結局その工房を突き止めることはできず、
どの工房に行っても土産物を売りつけられるばかりで門前払いだった。
あとで分かったことだが、工房ごとに得意な幾何学模様あり、
その技術が流出しないように、観光客相手に簡単な実演は
見せたりするが、奥深い創作のノウハウは門外不出ということだった。
工房に入ることは難しく、やむなく学校に入り
モザイクの模様になる幾何学の理論などを学んだ。
しかし、学校では実際の制作や現場での状況は分からない。

結婚して半年で家を飛び出し、身重の妻を日本に置き、
仕事もせずタイルの修行だといってモロッコで学校に通う。
1年で帰らなければと思っていた。
だが、どうしてもまだ納得がいかない。
工房で制作してみたい。
現場で作業してみたい。
その一心で妻と産まれたばかりの赤ん坊を連れ、
モロッコへ舞い戻った。

学校の2年目はインターンシップがあり、
工房で研修できることになっていた。
そして、胸躍らせて学校へ行った。
夏のヴァカンスを終え、
数ヶ月ぶりに会う仲間たち。
数名は進級できず学校を去っていた。 班を二班に分け、研修に行く工房が決まった。

翌日、私の班は新市街のフェズ駅に集合した。
先生に引率され、駅からバスに乗り30分。
フェズの郊外のベンスーダという地区に着きバスを降りた。
舗装されていない道路から乗ってきたバスが去っていく。
砂けむりが上がり、全くまわりが見えなくなる。
その砂けむりが落ち着いてようやく辺りを見まわした。
西部劇のワンシーンのようだと思った。
でも歩いているのは馬ではなくロバだった。
人々は私を注視している。

ここではまだ東洋人は珍しいようだ。
子供たちが寄ってきては私に「アチョー」といってちょっかいを出す。
今度は香港映画だな、と苦笑しながら
私も「アチョー」といって子供たちを追い掛け回す。
そうこうしているうちに大きな建物に着いた。
大きな鉄の門があり、門番が立っている。
その横には太い鎖につながれた大きな犬がいる。
先生が門番と話し、私たちは中に招かれた。

工房内はタイルをハンマーで割る音が鳴り響いている。
職人たちが私たちを睨みつけるように見ている。
親方が現れた。
私は目を疑った。
あのテレビ番組に出ていた人だった。
ここがあの工房か。
親方の挨拶はアラビア語で私には分からない。
ただ立ちつくし、こぶしを握りしめ震える体をおさえ、
目を閉じ、歯を食いしばり、溢れそうな涙をこらえた。

来てよかった。
来てよかった。
来てよかった。

頭を上下に振り、何度もうなづいた。
ふと親方と目が合った。
親方はただ私がアラビア語を解していると勘違いしたようだった。
この日から私はこの工房に入り浸るようになる。

工房の様子とモスクの現場

工房の様子とモスクの現場

現場の写真、一番右がタイルびと

現場の写真、一番右がタイルびと

 

 

 

モロッコでの暮らしは
一人暮らしから、妻と0歳の娘を呼び寄せたことで一変した。
まず、着いてすぐに妻が体調を崩した。
水にあたったのだ。

日本は狭い島国で雨も多く、
地下水から雨に循環するサイクルが早いため軟水になるようだ。
一方モロッコの水は硬度が高く、軟水に慣れている日本人は
モロッコの水にあたりやすい。
硬水はミネラルを多く含みパスタを茹でるとコシが出るし
煮込み料理などの西洋料理に合う。
ご飯を炊いたりダシの効いた日本料理には合わず、
石鹸が泡立たないのも特徴だ。

洗濯機がなかったので洗濯物は洗濯板で洗っていた。
私はいままで泡立たない固形石鹸で使っていた。
ある時、妻がつけ置き用の液体洗剤を見つけてきて
洗濯は格段に楽になった。

0歳児がいて大変だったのは料理や洗濯だけではない。
一番困ったのは予防接種だった。
日本でスケジュールが組まれて途中まで受けていたが、
複数回受けるポリオなどは続きをモロッコで受けなければいけない。
どこで受けるかもわからず、モロッコ人の友人に聞き、
行ってみると保健所のようなところで2種類を一気に受けさせられた。
日本では1種類ずつ間隔をあけて接種するように指導されていたがもう遅い。
翌日、子供が高熱を出した。
注射器を使いまわしていたことあり、妻は非常に心配した。
病院に連れて行くと予防接種を受けて熱を出すのは当たり前だと言われた。
すぐ熱が下がり、妻も落ち着きを取り戻したものの、
私はモザイク工房に通いつめず、
子育てに協力するようになっていった。

3月。
妻が初節句をやってあげられないのを残念がった。
日本から小さいひな人形を持ってきていたので飾っていると、
妻のフランス人の友人がこれは何かと聞いてきた。
説明してもフランス人はひな祭りの風習を全く理解せず、
男女で節句を分けるのもいい文化ではないといわれた。
妻も世界は広い、細かいことにこだわっていた。
と理解したようだった。
翌月、私の友人の家にあかちゃんが産まれた。
お祝いをするからと家に招かれた。
モロッコのお祝いは羊を犠牲にして神に感謝する。
メッカの方向の向き、ナイフ一本で羊をさばく。
私は娘のいい節句になったと思った。


犠牲祭 生と死が息づいている

犠牲祭 生と死が息づいている


よく旅もした。
一番印象に残っているのはサハラ砂漠に行ったことだ。
世界一贅沢な砂場遊びをさせてやろうと思ったのだ。
サハラまでは過酷な道のりだ。
0歳児を連れてやることではないと思う方々も多かろう。


サハラ砂漠で砂遊び

サハラ砂漠で砂遊び


子育てにもいろいろな考え方がある。
私はあまり考えないで、感じたまま行動したい性分だ。
いい経験をさせたと今でも満足している。

 

チルチンびと広場がはじまって1年が経った。
そして私のタイルびとも書きはじめて1年だ。
そもそも一介のタイル職人がなぜコラムを書くことになったのか。

私が住んでいたモロッコのフェズはまさに迷宮都市。
狭い道が迷路のように複雑に入り組み、
観光客は人とロバをよけながら、
迷子になりながら目的地に向かうことになる。
私は日本人に出会うと声をかけるようにしていた。
そして時間があれば道案内をした。
得意気に迷路を縦横無尽に歩きまわり、
タイルモザイクの工房のほかにも彫金、木彫、皮なめし、
フェズの職人たちと接してフェズを満喫してもらう。

案内した際に必ず立ち寄る土産屋があった。
モロッコの土産屋は日本人とみると必ず5倍、10倍の値段をふっかける。
そのなかでも品数も豊富で比較的良心的だと思い、いつもそこに案内した。
何十回と案内しているので、だいたいの値段を私は知っていた。
ただ私は値段交渉の手助けはしない。
その人がいくらで買うかはその人が見出した価値だと思っているからだ。

あるとき二人の若い女性と出会い、一日フェズを案内した。
案内した二人の女性とはその後手紙のやりとりをするようになり、
私が帰国するとたまに会うようになった。
それから17年、会うたびに友人を連れてきては輪が広がっていき、
その出会いのなかでチルチンびと広場の立ち上げに偶然遭遇し、
私のモロッコの経験談が面白いということで、コラムを書くことになったのだ。
必然的に、私もモロッコを回想することが多くなった。

小さな輪からはじまったチルチンびと広場も徐々に大きくなっている。
広場に集まり、出会い、絆となる。
私にとってそのはじまりが、あの17年前の辺境の地での
同郷の二人との出会いにあるのは感慨深い。

モロッコから私たち家族が日本に帰る際には、お土産がたくさん必要になった。
例の土産屋であれもこれもと手に取りレジにむかう。
値段を知っている私は値段交渉しなかった。
店主はにこやかな顔で10倍の値段を言った。
それからミントティーを飲みながら1時間もかけて値切ったものだ。
悪気があるわけではない。
この時間を、この出会いを楽しんでいるのだと思った。
そして、別れを惜しんでいるのだ。

よし、今年は再びモロッコに行こう。


フェズはまさに迷宮都市

土産屋の主人と

白石 普 しらいしあまね  白石普タイルワークス代表。

芸術家一家に生まれ幼少より美術、芸術に親しみ、
留学経験からイタリア語やフランス語を操る異能のタイル職人。
主に東京都内の店舗工事を中心に活躍する。
昨今は粘土からハンドメイドでオリジナルな異形のタイルを作り、
デザインからタイル制作、現場施工をおこなう、まさにタイルびと。
2011年11月よりタイルアトリエ「ユークリッド」(東京都中野区鷺宮3-45-7)を主宰。

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