夜の灯り

本当の闇というものを一度だけ経験したことがある。
両目をめいっぱい見開いてもなにも見えない。まばたきしてみてもなにも変わらない。自分の手のひらさえ見えない真っ暗やみだ。足元を流れる小川の音だけが聞こえる・・・恐怖とはこういうものだということを実感させられた貴重な体験だった。仲間がいたからまだしも、一人きりだったら一体どんなだっただろう。
越後湯沢で蛍をさがしにいったときの出来事だ。街の明かりが空気を染めるため、真の闇というものが訪れることのない都会では有りえない光景だった。
北欧のような白夜の世界では、もしかしたら暗やみにあこがれているかも知れない、などと考えてしまう。
人間は火を手に入れてから他の動物とのちがいが鮮明になったというが、電灯が発明されてからは闇というものをすっかり忘れてしまった。自然に対する畏怖のようなものも同時に失ってしまったような気がする。
日本にはじめて電灯が灯ったのは現在90才の人の親の時代。ついこの間の出来事だ。文明に対する人の適応能力はすぐれているとは思うが、科学技術の進歩のスピードは肉体と精神の順応性をはるかに超えている。個人の力だけでは、人が人らしく生きるための人間性を守ることはできない。さあどうする?!

薪能を観ると「能」というものは夜の出し物だということがよくわかる。能面の表情が人工光の能楽堂で観るのとまるで違うのだ。下方からのゆらめく炎の光で変化する面の陰影が観客を引きつける。薪能ならではの格別の世界か。昼間の天空光で能を観たことはないが、やはり人工光とはまったく違う景色なのだろう。能面を打つときも炎の灯りをたよりにやっているのか、そうだとしたら薪能の演者とともに能面師を頼もしく思う。
歌舞伎の「白塗」や「隈取」も行灯などの弱い光に対応した化粧だろう。行灯だけ?の人工光を使わない歌舞伎公演があったと聞くが、本来の姿を見てもらいたいという趣旨には賛同する。観てみたいと思う。

子供のころ台風というと停電だった。じつはロウソクを灯した情景が好きで停電が待ち遠しかった。備えのロウソクに常備品のマッチで火を点けると、ゆれる炎の灯りで人の顔や周りの景色がゆらゆらとうごめく。なつかしく想い出す。夕日や大文字焼きやキャンプファイヤーをながめて気持ちが高ぶるのは、人がもつ動物的本能がそうさせるのだろう。
部屋を暗くしてテーブルごとにローソクの火を灯すキャンドルサービス。否が応でも雰囲気が盛りあがる。明るいほうが食べものが美味しそうに見えると云われるが、こんなとき肉の色とムードとどちらを採る?
ロウソクの灯りは今も好き。たまには停電もいいもんだ。懐中電灯なんて使いたくない。
明るさでなく、暗さを意識して照明計画をしたら新しい発見がありそうな気がしてきた。
今度やってみよう。

♪街の灯りちらちら~ あれはなにをささやく~~
 「街の灯り」堺正章・阿久悠・浜圭介

夜の灯り