雑誌「チルチンびと」79号掲載 小笠原からの手紙
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*註 東京̶父島間のアクセスは本誌67号、父島̶母島間のアクセスは68号参照。 風前の灯火となった海鳥繁殖地を救う手だてをなくし、小さな島では行き場のないネコを安楽死させる方法を島外に請うた。消えようとする海鳥が話題になっても「ネコも救おう」と言った人はいなかった。「ネコを東京へ送ってください」。東京都獣医師会有志のメッセージを母島に持ち込み、協働メンバーと話し合った。 新しい提案に、関係者は揺れた。「島の無責任」「島の恥」と本音も漏れた。「カツオドリ数羽とネコ数頭を救っても、その先はどうする」。正論だった。すでに春の異変から梅雨明け間近となり、南崎の海鳥はカツオドリ1ペアだけになっていた。それでも新しい一歩が踏み出せぬほど、ネコ問題は長い年月抱えすぎていた。提案の見送りに話し合いは傾いた。蒸し暑い夜の会議室で会話が途切れ、「もう一度父島で考え直してくる」と私が引き取ろうとした時、待ったがかかった。「あのカツオドリを見捨てたら、俺の中の母島が壊れてしまう。あのペアがいる限り救う努力をしたい」。少しの沈黙のあと別の人が続けた。「いろいろ問題はある。でも、これまでうまくいかなかったのだ。今は新しい方法を試してみよう」。 翌朝、予想外にモーターボートまでやってきた。メンバーの一人が資材運搬を申し出てくれたのだ。すっかり梅雨は明けていた。海は明るく、半島の草木が光っていた。波洗う磯場に資材を投げ上げて、他のメンバーは陸路を急いだ。数年後に環境省等によって山域のネコ対策は本格事業化されるが、始まりは、文字通り手弁当の持ち寄りで、試行錯誤の連続だった。母島島民、行政マン、来島中の研究者、父島の我々がローテーションを組んで、灼熱の南崎へ通った。理屈や制度上の整理など事務的なサポートも重要だった。夏空の下、ボニンブルーの海に突き出た緑の半島には踏み分け道ができた。2週間でネコ4頭が捕まり、初めてづくしの協働は終了した。カツオドリを襲う姿が自動撮影機に写った茶トラ柄も捕獲された。捕獲箱でも猛り狂い、捕らえられてなお人を寄せ付けぬ迫力があった。不慣れもあり捕獲箱ごと背負子に括り付けるのも一苦労だった。ヒメツバキやビロウの生い茂る小道を人の背に揺られながら、ネコたちは東京への長い旅路についた。 母島から東京に行くには人もネコも同じこと*註。機会は週1回で、船の移動時間だけで30時間近く。さらに竹芝港到着後の車の移動も加わる。船酔いは心配したほどではなかったが、都内搬送は大変だった。手分けをしたメンバーが受け入れ動物病院に到着したのは日暮れ後だった。思わぬ問題も見えた。当初、搬送はペット料金となった。母島から父島で乗り継いで東京まで行くと1頭1万円を超えた。それだけですぐに頓挫しそうな金額だった。後に小笠原海運㈱が無償搬送協力を申し出てくれた。「おがさわら丸」は現在に続く東京へのネコ引っ越し事業を陰で支える功労者だ。 2005年、南崎はひっそりと秋を迎えた。最後のカツオドリも南へ去った。東京都獣医師会の協力へのお返しは、ただ一つ繁殖地の復活以外にない。来年、海鳥はまた南崎に戻って来てくれるだろうか。次に何をしたら良いのだろうか……潮風にゆれる草地で想いが巡った。救わんとしたカツオドリは、小笠原では親しみ深い海鳥だった。絶滅危惧種たちを次世代に引き継ぎたいと考えていた私たちは、普通種であるカツオドリの繁殖地を守るために、いかにさまざまなことが必要か、改めて思い知る経験となった。そして、自らの試行錯誤なしには次のステージに進めないこと、さらに、絶滅危惧種の保全とは、このような積み重ねのはるか先にあることが理解された。世界自然遺産などまだ形も見えなかった当時、島民、さまざまな行政機関の人、研究者などが、文字通り垣根を越えて、同じ現場で協働作業をするなどありえないことだった。そうだ、まずは、この夏、南崎で起きたことを伝えよう。そう思い立った。 夏休みが終わって母島小学校から、子どもたちに南崎の話をして欲しいと依頼があった。渡りに船と思いつつも、どう伝えるべきか悩んだ。家でネコを飼っている子どももいる。衝撃的な写真が一人歩きすれば、ネコが悪者になるのは簡単だった。でも、小さいが、画期的な協働作業を巻き起こしたのは、新しい提案「ネコも救おう」だったのだ。海鳥繁殖地の復活も、ネコ問題のブレークスルーの鍵も、実はそこにある気がしてきていた。悩みながら子どもたちにはありのままを見せることにした。半島部から鳥の死体の山積みを持ってきた。現物にはにおいや羽根の質感など、命の残骸として無言の言葉があった。最後のスライドとして使用した、箱の中から睨みつけるネコの目は、媚びることなく正面から人を見据えていた。解決できない問題をそのまま子どもたちに語った。「ネコが悪いのだろうか? 鳥が悪いのだろうか?どうして、動物たちは出会ってしまったのだろうか? 出会わせたのは人間だ。人にできることがあるはずだ」。それは、今に続く取り組みの原点となっている自分たちへの問いかけでもあった。長いネコ問題へのアプローチが始まった。         (続く)自分の中の母島初捕獲旅立ったネコたち海鳥が去った後で131

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