雑誌「チルチンびと」84号掲載 京都大原の山里に暮らし始めて
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7 日本に着いて6日目の9月18日にヴァル・トスト中尉と知人の使用人に加えて現地で雇った4人の強力の計7名で富士山に挑戦した。ところが7合目で敗退となる。 「頂上を極めることができなかったことや、そこからの美しい眺めを見逃したのはいらだたしかった。その夜の間に天候は急変し、わたしが7合目に着いた時刻から、雨は間断なく、1週間続いたのだった」。 西洋流近代登山を日本人に紹介したイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンは当時日本で暮らしており、同年5月に富士山に登っている。カーゾンとの交流はなかったようだ。ウェストンは、のちに日本の山を『日本アルプスの登山と探検』(1896年出版)で世界に初めて紹介し、今なお日本の登山界に影響を与えている。ちなみに外国人初の富士山登頂は1860(万延1)年、初代イギリス公使ラザフォード・オールコックら英国人3名を含む日本人役人と従者など百余名におよぶ大登山隊であった。 話を元に戻そう。カーゾンは富士山に未練が残った。京都に向かう車中から富士山を見て「富士山はとてかじやま・ただし/1959年長崎県生まれ。写真家。山岳写真など、自然の風景を主なテーマに撮影している。登山ガイドブックほか共著多数。84年のヒマラヤ登山の後、自分の生き方を探すためにインドを放浪し、帰国後まもなく、本格的なインド料理レストラン「DiDi」を京都で始める。妻でハーブ研究家のベニシア・スタンリー・スミスさんとはレストランのお客として知り合い、92年に結婚した。PROFILEもきれいに、そして、雲ひとつなく見えたので、我々は御殿場で降りてもう一度富士山に挑戦してみようかという気持ちになった」と日記に書いている。 京都滞在中のカーゾンは、寺社見学の合間に伝統工芸品や古美術品を探し求めた。どの店に何があるとか、ある店は固定価格で、ある店は値引きするといったことなど細かく日記に書いている。こうして彼が集めた日本の陶器は、子孫のベニシアに影響を与えたのだ。日記によればカーゾンはここ大原には来なかったようだ。 カーゾンは京都のあと神戸から船に乗り、長崎から対馬列島を経て韓国、そして中国へ向かった。そのとき見聞したことや考えたことを2年後に『Problems Of The Far East : Japan, Korea, China 』(1894年発行)」にまとめて出版した。後、カーゾンは芦ノ湖から富士山を見て感激する。 カーゾンは芦ノ湖と日光旅行で、ガイドに伊藤鶴吉を雇っている。伊藤はイギリス人女性旅行家イザベラ・バードが1878年に日本を旅行したときに雇ったガイドだ。カーゾンはサンフランシスコからの船中でイザベラ・バードの著作『日本奥地紀行』(1880年出版)を読み、彼女の旅を助けた伊藤をぜひガイドに頼みたいと思っていた。伊藤は西洋人好みの料理を作ることができるコックでもあった。「日本食メニューでのぞっとするような代替飢餓食から、我々を救ってくれた」とある。また日本女性をカーゾンは日記の中でこう評している。「愛想がよいだけでなく、完璧に慎みのある親しみを備えていた。これは、世界中でただ日本人の乙女だけに言えることだ」。 5年後の1892年、2回目の日本滞在では伊藤博文などの大臣たちと3度の晩餐会や国会議事堂見学など、政治家としての動きの合間に富士山登山に向かった。山好きの僕は、ついつい彼のそういう冒険的な動きが気になる。1887(明治20)年と1892(明治25)年の2回、世界一周旅行の途中でそれぞれ3週間ほど彼は日本に滞在している。  1887年(当時28歳)の旅行は半年間にわたるもので、日本にはサンフランシスコから乗った船で上陸した。「横浜湾の入り口を見るために、朝早く5時半に起きた。もしかすると雪をいただいた円錐の富士山をみることができないかと思ったからだ」と日記にある。それから数日梅雨の晴れ間に庭を手入れするベニシア。アナベル、ゼラニウム、エキナセア、ベルガモットが花を咲かせた。

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