雑誌「チルチンびと」75号掲載 京都大原の山里に暮らし始めて 梶山正
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する若狭の殿様の行列が花尻橋を通 りかかったところ、大蛇が襲いかか ろうとした。ところが、家来によっ てその大蛇は斬り殺されてしまう。 その夜から大原は激しい雷雨に見舞 われた。恐れた大原の村人たちは、 大蛇の頭を乙 おつう が森に、尻尾を花尻の 森に、胴体を西之村霊神之碑のある 所に埋めて霊を鎮めたという。  おつう伝説の大蛇と大原雑魚寝の 大蛇は関係あるのだろうか? 日本 各地の大蛇や龍などの伝説は、その 地の川や水の神様との関係が深いと 聞く。おそらく、昔から氾濫が多か った高野川を恐れるうちに、出来上 まって暖を取っていた。僕たちもそ こに加わる。初詣の人々が次々にや って来ては、焚き火の輪に入る。狭 い大原なので顔見知りばかりで、ロ ーカルな話題の会話がはずむ。  老朽化していた拝殿は、昨年建て 替えられ、今は木の香りがするほど 新しい。昔は節分の夜にこの拝殿に 村の男女が集まり、一夜を明かす風 習があったそうだ。その昔、蛇 じゃ 井い出で(僕が住む井出町のこと)の大淵とい う池に大蛇が棲み、村人に危害を与 えるので、村人たちは1カ所に集ま って大蛇から逃れた。それがいつし か、村人たちは節分の夜になると江 文神社の拝殿へ集まり、一夜を明か すようになったという。井原西鶴の 『好色一代男』の中に「大原雑魚寝」 という話があり、そのことが書かれ ている。しかしこの風習は風紀上い かがわしいということで、明治には 禁止されたそうだ。  大原には、こんな伝説もある。昔、 おつうという娘が住んでいた。ある 日、若狭の殿様に見初められ、殿様 のそばで暮らすことになった。しか し、おつうが病に伏すと殿様の熱も 冷めてしまい、彼女は大原に帰され た。悲しみのあまりおつうは高野川 に身を投じる。すると、美しい彼女 は大蛇に変わった。ある日、都入り 「正月は宗む なか像た に帰って来るよう に!」 年末に九州の父から手紙を 受け取った。数カ月前に父は膿胸を 患っていた。これまで、あまり病気 などしたことがない父にとって、1 カ月半の入院生活は辛かったようだ。 僕は4人きょうだいの長男である。 姉は両親に八十歳の傘 さんじゅ 寿祝いをして あげようと、正月4日にきょうだい 全員で宗像に集まろうと声をかけて くれた。  ベニシアは年末に3日間入院した。 忙しい毎日なので、年末しか入院の 日程を空けられなかったのだ。持病 の血栓で悪くなっていた左足の静脈 を糸で結ぶ手術をやってもらったの だ。退院後3日目の正月の朝、ベニ シアと孫の浄と僕は、大原八カ町の 産う ぶ 土す な 神を祀る江 え 文ふ み 神社へ初詣に向か った。神社への登り坂をゆっくりと 上ったが、ベニシアは手術した左足 が痛むようだ。  年始のお参りを済ませて中央の広 場に下り御神酒をいただく。拝殿と 本殿の間で焚き火に 10 人ぐらいが集 江文神社への初詣と 長寿のお祝い がった伝説なのであろう。   江文神社拝殿内部の壁には、「桝 かき」という絵馬のようなものがた くさん掛けられている。その桝かき にはどれも「祝八十八歳」の文字と 人の名前が記されている。米寿の祝 いに奉納されるのだ。米の字は八、 十、八と分解できるので、 88 歳のお 祝いに米が使われるようになったと いう。桝と斗棒は米を量る道具なの で、米寿の祝いに桝かきを奉納する という訳も理解できる。  正月3日目の朝、僕と悠仁は京都 から車を走らせて宗像に向かった。 手術後で安静にすべきベニシアは、 大原でゆっくりすると言う。  宗像の新興住宅地に銀行員の父が 土地を買い、家を建てたのは今から 約 40 年前。自由ヶ丘という今風の名 前のベッドタウンである。当時、近 所の住人は、都市部で働く 30 代半ば から 40 代半ばのサラリーマンと学校 に通う子どもたちが多かった。学校 を卒業して勤めに出た子どもたちの 多くは、この町に戻って来ていない。 現在、近所の住人は、僕の親のよう に高齢者ばかりだ。町は山野を切り 開いて造られた分譲地なので坂道ば かり。それで道を歩く人々がほとん どいない。買い物などの用事はすべ て車を使っている。僕たちがそこに 8

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