比較の目をなくすのは難しいですが、もう一つの目で子どもの良さをしっかり認めることが大切です。

自分の子どもを「比較の目」で見てしまう??その要因の一つとして、今の若い親たちの子育てや子どもについての知識が、本だけから学んだものであることが挙げられます。
 

ふた昔前の世代ではほとんどの人が、自分の弟や妹の世話をしたり、異年齢の子ども集団の中で育ち、自分が子どもを持つ前に小さな子どもに触れる機会がありました。それを 育児の予習 といいますが、その体験から人間は一人ひとりみんな違うことを実感として学んでいたのです。しかし育児の予習をしていない今の子育て世代は、本に書いてある発達の平均値的な数字やほかの子との「比較の目」に頼りがちで、平均より早いか・遅いかとか、この子よりも進んでいる・遅れているなどという目で自分の子どもを見てしまうのです。
 

そして「比較の目」にはもう一つの側面があります。それは、うちの子がほかの子より遅れていると見てしまう親自身が、親としての自分に対する評価を気にしていることです。「自分がきちんと育てていたらもっとうまくいくはずなのに……」などと、子どもを見ているようでありながら、実は自分自身の弱さと低い評価を我が子に見てしまうのです。これは若い親たちが、偏差値などをはじめとした他人からの評価のまなざしにさらされながら成長してきた世代であることとも関係しています。
 

親が比較の目ばかりにとらわれていると、子どもは追い詰められてしまいます。子どもはいつか失敗すると、親に見放されるのではないかという不安を抱かざるを得なくなるからです。比較の目をすべてなくすのは無理だとしても、今親に求められているのは、我が子が何に興味があるのか、何に関心があるのかを見抜いて認めることです。それは「ほめる」ことの意味ともつながる子育ての基本だからです。
 

そしてそれは、かけがえのない一人の子どもとして、欠点も長所も持った「丸ごとの人間」として我が子を慈しむことにつながり、さらに「この子と出会えて幸せ」と感じながら子育てを楽しむことができる子どもの見方でもあります。それこそが子どもを元気に、活発にし、力を伸ばすいちばん大切な子どもの見方でもあるのです。
 

子どもだけの問題とせずに、親子関係を一度見直してみましょう。

子どもがあまり話さないのは、子どもの側にどうせ話してもわかってくれないという、ある種のあきらめがある場合が多いようです。子どもが自分から話すのは、自分が好きなこと、興味があることを話しても、親がきちんと聞いてくれるという体験があるからです。そういう関係ができていれば、子どもは自分の思っていることの一部分を話してくれるものです。
 

とはいえ、子どもの話を聞くということは実に難しいことです。話の聞き方にはいくつかあるのですが、親がやってしまいがちなのは、「親が知りたいことを子どもから聞き出す」という聞き方です。幼稚園や小学校から帰ってきた子どもに、今日どうだった? 給食おいしかった?……などと、いろいろ聞き出す。そして自分の聞きたいことを聞くと、子どもの話を聞いたつもりになって終わってしまう聞き方です。これでは子どもがやがて話をしなくなることは避けられません。
 

そこで、親が心がけるべきもう一つの聞き方をご紹介します。それは「子どもが話したいことをただ聞く」ことです。途中で話を切り上げさせることなく、「うんうん」と相づちを打ちながら聞くのです。求められてもいないのに助言をするのもダメ。これは実際、親にとって相当の辛抱と心の余裕が必要です。2?3分くらいでじりじりしてしまう気持ちを抑えて、5?6分は頑張ることが必要です。子どもの話が一段落ついたら、「話をしてくれてありがとう、お母さん、いろんなことがわかったわ」と声をかけて終わりにするのです。そうすると子どもは、「話してよかった! わかってもらえた!」と思えるからです。
 

話の途中でイライラした親が「要するに何の話なの?」などと聞いてしまうと、子どもは、「どうせ話したって聞いてもらえない」とか「自分が話すことでお母さんに迷惑をかけてしまう」と感じ、話さない子どもに育っていきます。聞いてほしいと思って話す子どもの気持ちは非常に大切なものです。辛抱は必要ですが、親がじっくりつきあうことで、子どもとの関係を育てていくことができるからです。ここでもやはり必要なのは、親たちのゆとりです。
 

相手が話を聞いてくれないと感じた子どもたちは次第に話さなくなっていき、ゲームなどへの没入を加速させることがあります。人とよりよい関係をつくることが苦手になり、できなくなってしまうのです。その結果、人とのコミュニケーションをとれずに孤立していくケースもあります。「孤立」は青少年の犯罪のキーワードですから、十分に考える価値がある問題なのです。
 

2008年に秋葉原で通り魔事件が起きました。人を傷つけ、尊い命を奪ったその犯行は決して許されるものではありません。しかし私は、自分なりに資料を集めて考えていくうちに、この人は許し難い加害者であると同時に、悲しい被害者でもあると感じるようになりました。犯行の根底には、親子関係までもがずたずたになるほどの、犯人の青年が抱えていた孤立という問題がありました。
 

犯人の青年は、製造業にも導入された派遣労働の現場で、人格を無視する扱いを受けていました。それがどんなに厳しく寂しくむなしいものであったか。ネットへの書き込みで彼はその心境を綴っていました。しかも、その苦しさを共有できる友だちが彼にはいなかった。辛うじて残されていたインターネット上のつながりさえもなくなってしまったときに、彼は犯行に及んだのです。それは同時に、最後の砦であってほしい親子関係が子どもの頃から切れていたことを示していました。彼の親は、子どもに対して過剰な期待をかけていました。いわゆる超一流の高校、大学に入れることで自分たちが果たせなかった夢を子どもに託す。そのために異様なまでの勉強をさせていました。期待に応えられなかったときは、罰としてご飯さえまともに食べさせてもらえなかったそうです。本もテレビも許可なしには見せてもらえないほど徹底的に管理された生活でした。それに耐えられなくなった彼が高校に入ってから勉強をやめて、「良い成績」で維持されていた親子のつながりがダメになったとき、親子関係は破綻しました。最後の砦の破綻は究極の孤立につながりますが、それがあれだけの犯罪を生んでしまった背景にあったのです。
 

私たちがこの事件から学べることがあるとすれば、子どもが友だちとけんかをしたり、大きくなっても仕事が上手くいかなくなるなど、コミュニケーションに行き詰まり、孤独を感じてしまったときに、親は、最後に思い出してもらえる存在でありたいということです。
 

子どもの話を最後まで聞くこと、それは親子の信頼関係を結ぶためのステップなのです。
 

子ども同士のつきあいも配慮しつつ、我が家ではこれだけば譲れない、という家族の行事をつくってみてはいかがですか。

今の子育てはたいへんです。幼児期はキャラクターグッズとセットになったDVD教材などのダイレクトメールが山のように送られてきて、それがないと友だち同士の関係が結びづらいほどです。学校に入れば、塾や習い事に行かなければ友だちに取り残されるような気持ちになります。育児産業の仕掛けの中で子どもも親もいろいろな迷いや選択が避けがたくなり、高い出費を強いられることも多いからです。
 

しかしそれも時代の流れ。自分自身のことではなく、子どもの人間関係のことですから、それに配慮してそこそこのつきあいを認めることも必要です。けれども企業がつくる子育てや教育の情報に翻弄されずにやっていきたいと考えると、悩みは深まるばかりです。
 

考えられる一つのヒントは「我が家流の子育て」というものを、親たち一人ひとりが考えていくことにあります。すべてに優先して家族みんなで楽しむような行事をつくるのです。私自身の経験を紹介すれば、子どもが小学生のときからできるだけ一緒に映画を見に行きました。私が映画が好きだったからです。特に名作と言われる映画を見て、終わったあとお茶を飲みながら四方山話を楽しむのです。そして、子どもが高校生になるころまで毎年2回は家族で旅行に行きました。子どもが小学校4年生くらいになったときには、行き先が決まったら公共交通機関を使ったルートを子どもに調べさせ、計画と実行をできるだけ一緒にするようにしました。それが私の「我が家流」でした。
 

社会の流れの中で、親から見て子どもはいろいろと心配になることも経験させられますが、それを傍観したり否定したりするだけでなく、子どもにこれだけは伝えたい、うちの家族はこれだけは大事にするということを持つことが大切だと思うのです。スポーツ観戦でもキャンプでも、旅行でも、子どもを巻き込むのは親が好きなことでいい。我が家ならではの経験を積み重ねることによって、我が子らしい育ちをしてくれると信じることが大切だと思うからです。
 

テレビのマイナス面を認識して、ほかの遊びの楽しさも子どもにしっかりと体験させましょう。

まず最初にはっきりさせておきたいことは、家事の際に子どもを静かにさせるためにテレビを見せるのは、あくまでも「必要悪」だということ。お母さんが自分の時間を確保することは大切ですが、そこにテレビを使うのは決して正しい方法ではありません。どうしても子どもから離れて2?3時間もの長い時間がほしいときには、「テレビに子守り」ではなくほかのところに子どもを預けることが大切です。そうはいっても困難はたくさんあります。たとえばテレビをつけて30?40分仕事をしたい、という場面は現実にはたくさんあります。そんなときはお母さんの仕事が一段落した後が大切です。すぐさまテレビを消すのは親の都合の押しつけにもなります。短時間でいいから、子どもが楽しんでいるテレビをお母さんも一緒に見て楽しむことです。このひとときを持つことで、テレビに子守りをさせたのではなく、親子関係をつくるのにテレビを活用していることになる。テレビを見ながら子どもとふれあい会話をすることで、短い時間ながら子どもとのよい関係を取り戻していくことができるのです。
 

もちろんテレビのマイナス面は大きいものですが、ここではそれを二つに整理して説明します。一つは、映像がイメージを強制してしまうことです。本の読み聞かせや、友だちと考えながら遊ぶときは、自分でイメージをつくることが必要です。イメージをつくることは子どもの想像力を伸ばしていくことですが、テレビはまず画像があって音声が附属するので、見る者は何もイメージをつくる必要がありません。テレビばかり見て対話がないと、子ども時代に豊かに育つイメージ喚起力がやせ細ってしまうおそれがあるのです。テレビゲームなども同じで、与えられた画像の中でキャラクターを動かすだけの世界では、子どもたちの想像力は育ちません。
 

もう一つは、テレビやゲームの個別性です。他者との関係性を必要とせず、テレビと自分だけで関係が成り立ってしまうことです。テレビやゲームと自分との孤立した世界で育ったために人との関係性が貧しくなり、コミュニケーション能力が低い子どもがたくさん見られます。現実の社会では、人間関係の難しさを乗り越えながらよりよい関係性をつくっていくことが不可欠ですが、それが面倒でできなくなってしまうのです。
 

テレビにある程度依存しながらでないと、実際の生活が組み立てられないのが現実ですが、子どもにはテレビよりも楽しい仲間遊びがあるということをしっかり伝える必要があります。子どもたちにとって本当に楽しい遊びは、友だちとかかわって、緊張もするけれどおもしろい時間を持つことです。それをたくさん体験できれば、テレビとの関係が絶対的なものではなくなります。もっと楽しい遊びの世界を広げていくことが、テレビのマイナス面を小さくしていくための根本的な方法です。
 

自分ですべての責任を背負ったり、何でも一人でしょうとしたりしないで、周囲の人の力を借りる勇気を持つことが必要です。

とても大切な質問です。一般の子育て論は、両親がいる核家族を前提にして述べることが多く、子育てに大変苦労している母子家庭の問題を取り上げることが少ないからです。ここで母子家庭の子育てについて大切なことを、3 点に整理してお話ししておきましょう。
 

一つ目は、母親は家にはいない父親の八刀まで役割を果たそうとして、一人二役を演じることが多いのですが、それをやめていつも母親として子どもに接することです。二役を演じる母親の多くは、子どものためを思うあまり、実際の父親はあまりしないことを「父親」に代わって言ったり、したりしてしまう。そのために、母と子の関係がいつも緊張しやすく、子どもが甘えられなくなることが多いからです。
 

二つ目は、核家族の子育ては両親がいても難しいことが多いのですから、母親一人で何もかもしようとしないことです。子どもの保育園で出会った友だちやお母さん自身の姉妹など、子育ての不安や自分の悩みを話し合える人を探し出して、ともに支え合いながら子育てをすることです。もちろん節度は大切ですが、できたらたまには家族ぐるみで夕食をともにして、子どもと一緒の時間を楽しく過ごす工夫も大切です。そして子どもの様子にとても気になることがある場合には、ベテランの保育士である園長先生や主任の先生、あるいは地域の子育て支援センターや民生児童委員さんなどの、専門家に相談する勇気が必要です。周囲の人の理解を得ることがお母さんの笑顔の素であり、子どもに安心感を与える子育てにつながるからです。
 

そして三つ目は、子どもの不安が気になる場合は、その不安を軽くするために、子どもの誕生日を大切にして「あなたがいてくれてお母さんは幸せだ」というメッセージを伝えることです。特に離婚の過程に関する辛い記憶が子どもの心を傷つけたかも知れないと思っている方は、誕生の時のアルパムを整理し、ひと言添えた写真を一緒に見ながら、「あなたが生まれたとき、可愛かったよ」「お母さんはとても嬉しくて、幸せだったよ」と話してあげることです。子どもは親に望まれ喜ばれて自分が誕生したことを知ったとき、心の中で深く安心を感じとるものだからです。
 

タイムスケールを広げてその家庭なりにお父さんができることを考えてみてはどうでしょうか。

「父親がいつも子どもをお風呂に入れてくれたり、家事を少し手伝ってくれたら言うことはない」これは日本中の母親たちの思いです。しかし家族のために、父親たちは長時間働いて疲れて家に帰り、休む間もなく翌朝早く仕事に出る。そのために「父親の子育てへの参加」がうまくいかないと嘆く母親はたくさんいるのです。
 

大切なのは、夫婦がお互いの大変さを理解する気持ちです。家にいる時間の少ないお父さんに、1日単位ではできない無理な項目を挙げて、できるかできないかで話し合ってもけんかにしかならないかも知れません。そんなときには、タイムスケールを1週間とか1カ月とかに広げてみることが必要です。この日は休みが取れるから、お母さんに時間をプレゼントしてみようとか、大切なのは「できること」を探し出すことだと思います。
 

教育学には「幸せな夫婦とは物が豊かな夫婦のことではなく、子育てのことで話し合える夫婦のことである」という言葉があります。それはまた、落ち着いた子どもが育つ条件でもあると考えられます。
 

なぜなら話し合いの中で夫の思いやりが感じられれば、お母さんの気持ちもふっと軽くなるからです。夫婦がやわらかく協力し合える家庭の環境づくりは、子育ての努力の半分以上を占めるのではないかと思うぐらいに大切なことなのです。
 

そこでもう一つ見ておきたいのは、子どもが生まれたときは二人が同時に「親」になったのに、母親の成長に比べたら父親の進みは遅々としたもので、「まだそんなこともわかつてないの引」と言いたくなるという現実です。でもそんな言い方をされたらお父さんはおもしろくない。二人の足並みを揃えたくても揃えられない状況も夫婦の不和の大きな原因です。
 

私の講演会では両親揃つての参加を呼びかけていただくようにしています。実際には父親の参加は少数にとどまることが多いですが、講演の後、お母さん方は口々に、無理にでも一緒に来ればよかったと言ってくれます。というのも講演を聴くことで、お父さんは少しお母さんに追いつき、子育ての課題について、対話が成り立つようになるからです。
 

お父さんに求めたいのは、タイムスケールを広げてお母さんをサポートする可能性を見出して欲しいことと、お母さんと一緒に対話できる土壌をつくることです。講演会が難しいようだったら、まずはこの『チルチンびとkids 』を読んでいただきたいのです。
 

お母さんの気持ちだけの問題ではありません。子育てを取り巻く周囲の環境も含めて考え直してみましょう。

子育てをしている母親がいつもイライラを抱え、子どもに怒ってしまうのは、親の気持ちだけではなく、そんな気持ちにさせられる環境にも問題があるのです。
 

「気持ちを切り替えればいい」という人もいますが、それは全部母親の気持ちの問題に転嫁する、間違った議論だと私は思っています。なぜ母親がそのような気持ちになってしまうのかを考え、母親を囲む家庭的な、さらには地域的な環境の問題についても考える必要があるのです。
 

そもそも、独立した人格である子どもが、母親の言うことにいつも従うわけでないのは当たり前のこと。母親以外の人の出番があって当然です。子どもを育てるということは、一人の母親だけでできるほどヤワなことではなく、多くの人の手が必要な大仕事なのです。
 

しかし、現代の子育て環境は母親にとって非常に厳しいものです。父親は仕事で忙しくてなかなか協力してもらえない、実家や親戚も遠く、四六時中子どもと一緒――こんな状況で冷静にしていられるはずはありません。「自分はこの子を産んで幸せなはずなのに」、「どうしてこんなにやりきれない気持ちになるのか」などと考え、いつもイライラして、子どもが何かすれば怒りが爆発してしまう。気づいたら虐待してしまっていたというケースなんて山ほどあるのです。
 

こんな場合、母親が自分になる時間を持つことが何よりも必要です。保育園に預けたり、保育ママに頼んだり、子育て支援センターに相談して、まずは自分の時間をつくってみる。そして「私が私になる時間を持ってもいいんだ!」と体験的にわかると、子どもにもやさしくできるゆとりが生まれるのです。
 

21世紀の今日、保育園は母親が働いているかどうかにかかわらず、必要があればゼロ歳から預けられる機関であるべきです。「自分の時間を持っていいんだよ。子育ては一人でできるものじゃないんだから」――世の中全体がそういう思いに満たされたら、お母さんたちはどんなに楽しい子育てができるか。そのためには保育園や支援センターの充実など、子育て環境の整備が日本社会の大きな課題なのです。
 

孤立した子育ての中で悩んでいる人は多いし、その壁を破ろうとがんばっている人もたくさんいます。「私は虐待をしているのではないか」、「子どもを愛したくても愛せない」、そんな苦しみを抱えた母親からの相談がとても増えています。話を聞いていると「子どもを愛せる自分になりたい」という切ない気持ちが伝わってきます。その気持ちがあるから、大変な勇気を出して相談に来てくれるのです。本当にすてきなお母さんたちだと思います。
 

専門家に相談をすれば解決する方法は必ず見つかる。私はそう思っています。
 

なぜ、叱られるような行動をしたのか。その理由をたずねてみましょう。

多くの親は、自分が叱っている内容にだけ関心が向いてしまいます。子どもにこれはしてほしくないとか、やめさせたいとか。でも子どもは、叱られている中身以上に、叱っているお父さんやお母さんがどういう気持ちかを感じ取ります。実はこの気持ちの違いによって「叱る」ことと「怒る」ことに分かれ、子どもの反応が変わってくるのです。
 

まずは「叱る」ことと「怒る」ことの違いからお話ししましょう。「叱る」とは、子どもの行動の善悪を親が判断し、子どもに伝えること。ここで大切なのは、叱る対象となった行為の背後にある、子どもなりの理由を親がわかろうとすることです。子どもの行為を止めるために、最初に「ダメだよ!」と強く言ったとしても、話ができる歳になった子どもであるなら、その後で「なぜそんなことをしたの?」とたずねてみるのです。善悪を子どもに伝えるには、まず子どもの気持ちを理解する冷静さが求められるからです。
 

もちろん幼い子どもにとって上手に説明することは難しいでしょう。そんな時も「こんな気持ちだったのかな」などと、親が気持ちを察して返してあげると、子どもは親が自分の気持ちをわかろうとしていることを知ることができ、それによって親の思いを素直に受け入れることもできるのです。このように親が子どもなりの理由を理解した上で、「そんなときにはこうするんだよ」と知恵を授け、必要な罰を与えることを「叱る」と言うのです。
 

ところが「怒る」というのは、親の怒りを爆発させて子どもにぶつけてしまうこと。「自分の思いを裏切ることは許せない」という親の気持ちが独走している状態です。そこには善悪を判断する余裕も冷静さもありません。叱ったつもりでいても怒っている場合、子どもは親の気分の押しつけを強く感じてしまう。伝える中身がたとえ正しかったとしても、親がカッとなったままで「ダメだ!」と一方的に怒り続けると、子どもは親を、自分を理解する人ではなく支配する存在だと感じます。すると反省どころかまさに恐怖を感じ、パニックになって親の顔を見ることなどできない心理状況になり、大泣きしたり、食べものがのどを通らなくなったりという状態になることもあるのです。
 

もちろん子どもの命が危いときや、友だちを傷つけてしまいそうなときなどには、親が感情の爆発にも似た怒りをぶつけることも大切です。しかしそうでないときは、親がいったん冷静になって子どもなりの理由を聞くというプロセスを経ない限り、親の思う善悪の判断が子どもに伝わることは難しくなるのです。
 

子どもなりの理由を知ろうとする冷静さを持ちながら注意するのか、怒りやいらだちの感情を子どもにぶつけるだけなのか?「叱る」と「怒る」の間には親の気持ちに大きな違いがあり、子どもはそこを敏感に感じとっているのです。
 

気分次第で「怒る」親に子どもは反発を強めますが、善悪を教えるために理由を聞いた上で「叱ってくれる」親のことを、子どもは尊敬するようになります。
 

ほめて育てたいのは「いうことを聞くよい子」でしょうか、「自信を持った子」でしょうか。この子ならではの輝きを見逃さず、それをほめて「自信」を育てることが大切です。

「ほめる」ということには二つの意味があります。
 

一つ目は子どもがよい子だったからほめるというほめ方。親の期待に応えたときにほめるやり方です。けれどもこの「ほめる」は、親の期待を子どもに伝える一つの方法にすぎません。これを頻繁にやると子どもはいつの間にか、「親にとって都合のいい子」になって欲しいのだなあと感じ取ってしまいます。もちろんこういう「ほめる」も大切なことではあるのですが、「ほめる」ことがそれだけであると、子どもはやがてそれに反発し、親に反抗する可能性が高くなります。
 

もう一つの「ほめる」は、子ども自身が熱中していることやその子ならではの特徴に着目して、「それを夢中でやっているときのあなたは、本当にすてきだよ」とほめることです。つまり子どもの長所を認めてほめることです。
 

こんなふうにほめられると、子どもは「僕はこれが好きなんだ」と言える子になり、自信を持つことができるようになります。そして自信を深めた子どもは、好きなことを大事にするだけでなく、「僕はありのままの自分でいいんだ」という自己肯定感を身につけることができるようにもなるのです。
 

思いがけないときにお母さんからほめられると、子どもは意外な気持ちになるかもしれません。しかしそれによって「お母さんが自分のことをよく見ていてくれる」ことの嬉しさを実感できることは確かです。ほめる対象はまさに百人百通り。すてきな色彩の絵、絵を描くことに夢中になっている姿、ブロック遊びに熱中する様子、真剣に工作すること、音楽を聴いているときの熱中ぶり、絵本をよく読むこと、昆虫が大好きで熱心に観察すること、車の名前をどんどん覚えることなどなど……。どんなことでもいいのです。その子なりのユニークな面、熱中していることそのものがすてきなことなのです。学力などの競争的な価値観からほめるのではなく、一人の子どもがどこで輝くかを見出すのです。一方的に怒ったり、都合のいいところでほめて子どもを従わせるのではなく、叱るときには「どうしてそういうことをやったんだ?」と聞き、ほめるときには「君のこういうところはすてきだね」と伝えること。それは一個の人格として子どもを認めて、育てることを意味します。すると、子どもは「僕はこうしたい」とか、「それはしたくないんだ」などと、自分の気持ちをしっかりと言えるようになり、自立した人格に育っていくのです。
 

ほめることと叱ることは、その場のほめ方や叱り方という問題を超えて、子どもがどういう人格に育つかという大きな問題につながっているのです。
 

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